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誠晴會だより
「因果応報ということ2」
H18,11月号より
誠晴會顧問弁護士 吉田氏寄稿
一、
H18,11月号より
誠晴會顧問弁護士 吉田氏寄稿
一、
つい最近の裁判例に、飲酒運転による交通死亡事故の事案で、泥酔して運転した犯人だけでなく、彼と夜遅くまで一緒に酒を飲んでいた同僚にも、数千万円単位の損害賠償の連帯責任を認めた民事判決が出されていました。ニュースなどでも割合大きく取り上げられていましたので、ご承知の読者諸兄も多いと思いますが、この判決をどのように受け止められたでしょうか。
ワイドショーなどで飲酒運転による死亡事故などが報じられるときには、コメンテーターが「被害者と共に泣く」立場から、犯人を人非人か鬼畜の如く罵りあげる場面がしばしば目に留まります。視聴者も、多くの場合は被害者に感情移入し、「死刑にしてほしい」という被害者のコメントに素直に涙する向きも多いと思います(うってつけなことに、最近は法改正によって「危険運転致死傷罪」という便利な犯罪構成要件が整備されています。)。
ところで、このような感情移入はある意味で簡単です。何しろ、視聴者一般には、自分は「飲酒運転」もしないし「人殺し」もしないという自信があるからです。しかし、「犯人が飲んで運転することを知りながら一緒に飲酒し、車で帰るのを止めなかった場合には、一緒に飲んでいた人も数千万円からの損害賠償責任を負う」となれば、短絡的に「被害者のため」一辺倒の論調に賛成できるでしょうか(損害保険はありませんから、もちろん全部が手出しです。)。
「度を過ぎた飲酒運転はしない」という自信なら誰にでもあるでしょうが、「飲んで運転する人とは一緒に飲まない」というところまで来ると、そのような自信がある人は余りいないように思うのです。しかし、「死亡事故を起こす危険性」に対して「因果」を及ぼしたという意味では、飲んだ人も飲むことを止めなかった人もそれ相応の関与をしているのであり、区別する理由はないという言い分も成り立ち得ないではないのです。
この事件の被害者のコメントは、正確には覚えませんが、要旨「これをきっかけに飲酒運転を助長する風潮がなくなればいい。」ということでした。私は、このコメントに、深く深く共感しました。これは、視聴者一般に対し、自ら被害者と同じ土俵に立つことを求めたもので、「かわいそうな被害者」扱いをして自分自身は桟敷席から「高見の見物」を決め込むことを許さないものだったからです。「飲酒運転を許せばあなたも同罪である」。ものごとの本質を重く深く抉り抜いて、我々国民一般にも応分の負担を求めていたのです。
さて、このようにして詰め寄られたとき、皆さんは、素直に「被害者」に共感できるでしょうか。
二、
ワイドショーなどで飲酒運転による死亡事故などが報じられるときには、コメンテーターが「被害者と共に泣く」立場から、犯人を人非人か鬼畜の如く罵りあげる場面がしばしば目に留まります。視聴者も、多くの場合は被害者に感情移入し、「死刑にしてほしい」という被害者のコメントに素直に涙する向きも多いと思います(うってつけなことに、最近は法改正によって「危険運転致死傷罪」という便利な犯罪構成要件が整備されています。)。
ところで、このような感情移入はある意味で簡単です。何しろ、視聴者一般には、自分は「飲酒運転」もしないし「人殺し」もしないという自信があるからです。しかし、「犯人が飲んで運転することを知りながら一緒に飲酒し、車で帰るのを止めなかった場合には、一緒に飲んでいた人も数千万円からの損害賠償責任を負う」となれば、短絡的に「被害者のため」一辺倒の論調に賛成できるでしょうか(損害保険はありませんから、もちろん全部が手出しです。)。
「度を過ぎた飲酒運転はしない」という自信なら誰にでもあるでしょうが、「飲んで運転する人とは一緒に飲まない」というところまで来ると、そのような自信がある人は余りいないように思うのです。しかし、「死亡事故を起こす危険性」に対して「因果」を及ぼしたという意味では、飲んだ人も飲むことを止めなかった人もそれ相応の関与をしているのであり、区別する理由はないという言い分も成り立ち得ないではないのです。
この事件の被害者のコメントは、正確には覚えませんが、要旨「これをきっかけに飲酒運転を助長する風潮がなくなればいい。」ということでした。私は、このコメントに、深く深く共感しました。これは、視聴者一般に対し、自ら被害者と同じ土俵に立つことを求めたもので、「かわいそうな被害者」扱いをして自分自身は桟敷席から「高見の見物」を決め込むことを許さないものだったからです。「飲酒運転を許せばあなたも同罪である」。ものごとの本質を重く深く抉り抜いて、我々国民一般にも応分の負担を求めていたのです。
さて、このようにして詰め寄られたとき、皆さんは、素直に「被害者」に共感できるでしょうか。
二、
同じことは、医療の分野にも当て嵌まります。最近、産婦人科医師が医療行為の失敗の責任を問われて警察の強制捜査を受けるという事件がありました。これが、果たして医療過誤と評価すべき事案であったか否かはここでは立ち入りません。もちろん、医療過誤などあってはならないことで、人の生命を預かる医療者が自分の職分に対して厳しい自覚をもたなくてはならないことなど説明する必要もないことです。
しかし、困難な症例になればなるほど、また、困難な技術的課題を抱えれば抱えるほど、自ずと失敗のリスクは高まるものです。医療者として、本来大事なことは、このような困難に怯まない気概と努力であり、自己研鑽を厭わずに困難を克服する技量を備えることです。そのために志の高い秀逸な人材多数が集まることが期待されるわけです。それなのに、結果責任の追及一辺倒の論調の下に濫用的な問責行為が行われ、どれほど良かれと思って努力しても、また、ミスというほどのものがあってもなくても、失敗した以上は過誤と言われてしまいかねないとなれば、それだけで医療者は萎縮してしまいます。まして、警察の捜査にまで曝されて犯罪者扱いを受けかねないともなれば、凡人さえ寄り付かないという不遇の現象を招き寄せます。誰も引受けたがらない困難を引き受けて誠実に努力したのに、そのことを評価されるどころか失敗の結果責任だけで犯罪者扱いまで受けるとなれば、誰がそんな場所に寄り付くでしょうか。産婦人科学会がこの事案に際して警察の捜査に直ちにクレームをつけたのは当然のことと言ってよいでしょう。
三、
しかし、困難な症例になればなるほど、また、困難な技術的課題を抱えれば抱えるほど、自ずと失敗のリスクは高まるものです。医療者として、本来大事なことは、このような困難に怯まない気概と努力であり、自己研鑽を厭わずに困難を克服する技量を備えることです。そのために志の高い秀逸な人材多数が集まることが期待されるわけです。それなのに、結果責任の追及一辺倒の論調の下に濫用的な問責行為が行われ、どれほど良かれと思って努力しても、また、ミスというほどのものがあってもなくても、失敗した以上は過誤と言われてしまいかねないとなれば、それだけで医療者は萎縮してしまいます。まして、警察の捜査にまで曝されて犯罪者扱いを受けかねないともなれば、凡人さえ寄り付かないという不遇の現象を招き寄せます。誰も引受けたがらない困難を引き受けて誠実に努力したのに、そのことを評価されるどころか失敗の結果責任だけで犯罪者扱いまで受けるとなれば、誰がそんな場所に寄り付くでしょうか。産婦人科学会がこの事案に際して警察の捜査に直ちにクレームをつけたのは当然のことと言ってよいでしょう。
三、
しかし、やはり「因果応報」でした。この事件の故ばかりではないのでしょうが、新聞などの報道を見ていますと、産婦人科のように手数ばかり掛かって訴訟リスクが高い、いわば「労も害も多い」という分野を敬遠する傾向が顕著になっているようです。その結果、医師の数が不足して中核的大病院にさえ適当な医師がいないために適切な医療が受けられない妊婦が続出し、足が棒になるまで歩いても医師に巡り会えないために「産婦人科難民」という言葉まで生れているそうです。「少子化社会を迎えているのに、『産むに産めない』とは何たることだ」と悲憤する政治家もあるようですが、出発点から見直さないと、問題の解決にはならないようです。
四、
四、
同じことは、小児科や脳外科・心臓外科など、広く技術的困難の予想される医療の分野に蔓延しているように聞き及びます。これらの分野は、高度な医療技術に対するニーズが高く、本来自己犠牲の精神に満ちた秀逸な人材多数を集めなくては成り立たない分野のはずです。
正当な理由があっても、注目されるところが一面に偏りすぎると「巡り巡りて」他の方面から利益を損なうことがあるようです。
五、
正当な理由があっても、注目されるところが一面に偏りすぎると「巡り巡りて」他の方面から利益を損なうことがあるようです。
五、
因果応報思想の否定的な側面を指して「自業自得」ともいいます。かつて儒教の祖である孔子や孟子は「中庸」という言葉で全体のバランスの重要性を説きました。お釈迦様の教えにも「偏らない心」の重さを戒める言葉があります。
やはり、今日の我々にも「バランス感覚」が必要なのでしょう。
やはり、今日の我々にも「バランス感覚」が必要なのでしょう。