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「困難な成熟」予告編 2

2018年07月31日

 ジェントルマン at 09:00  | 誠晴會だより
「困難な成熟」予告編 2 2015.08.18 内田樹のブログ より

「眼には眼を、歯には歯を」という知恵

「ごめん」で済む話はない。どのような損害であれ、それを原状に復元して、「なかったこと」することはできない。そういうことです。ですから、「もう起きてしまったこと」について「責任を取る」ということはできません。原理的にできないのです。もう起きちゃったんだから。
 だから、人が不始末を犯したときに、「おい、どうすんだよ。責任取れよ」と凄んでいる人がいますけれど、あれは「私がこうむった損害について、あなたが原状回復をなすならば、すべては『なかったこと』にしてあげよう」と言っているわけじゃないんです。「どうすんだよ、お前、こんなことしやがって。どうやって責任取るんだよ。でも、おまえがどのようなかたちで責任を取ったつもりになろうしても、オレは『それでは責任を取ったことにはならない』と言うからね」と言っているんです。
だからこそ、「眼には眼を、歯には歯を」という古代の法典が作られたのです。
これは「同罪刑法」と呼ばれるルールですが、別にこれは未開人が考え出した残虐な法律というわけではありません。逆です。
どこかで無限責任を停止させなければならないので、法律で「これ以上は責任を遡及してはならない」という限度を定めたのです。
人に眼を抉られた人間には、相手の眼を抉る権利があるということを言っているのではありません。逆です。「人に眼を抉られた人間は、相手の目を抉る以上の報復をなしてはならない」と、復讐の権利の行使を抑制しているのです。
実際には、眼を抉られた人の視力は、加害者の眼を抉ったことで回復するわけではありません。目は見えないままだし、痛みは消えないし、容貌だってずいぶん損なわれてしまった。でも、そういう損害は、相手の目を抉っても、何一つ回復されない。
だから、「責任を取る」とは「原状に回復すること」であるというルールに基づけば、「眼には眼を」というのは、全然「原状回復」じゃない。だから、責任を取ったことにはならないのです。
同罪刑法が教えているのは、どのようなことであれ、一度起きてしまったことを原状に復することはできないということです。人間は自分がひとたび犯した罪について、これを十分に償うということが決してできない。
同罪刑法は「責任を取ることの不可能性」を教えているのです。人間が人間に加えた傷は、どのような対抗的暴力を以ても、どのような賠償の財貨を以ても、癒やすことができない。「その傷跡からは永遠に血が流れ続ける」とレヴィナス先生は『困難な自由』に書いています。
続く、、
  


「困難な成熟」予告編 1

2018年07月24日

 ジェントルマン at 09:00  | 納富貴院長のお勧めサイト
「困難な成熟」予告編 1 2015.08.18 内田樹のブログより


夜間飛行から『困難な成熟』という人生相談本が出る。
Amazonの広告に一部が出ていたけれど、せっかくだから、その第一問の問いと答えを全部公開。こういう感じでの説教が延々と続くのである。『説教本」が好き、という人にとってはこたえられない噛み心地。

「責任を取る」とはどういうことでしょうか。ニュースを眺めていると、テレビでもネットでも、不祥事を起こした企業や個人に対する「責任を取れ」という言葉が溢れています。しかし、人の死にかかわることや、原発事故など、個人のレベルをはるかに超えた問題について、人はどう責任を取ればいいのでしょうか。

答えはシンプル

「責任を取る」とはどういうことか。これは僕にとってはストライクゾーンど真ん中の質問です。というのも、「責任論」というのは、僕の師匠であるところのエマニュエル・レヴィナス先生の哲学の最大の主題であったからであります。ということはつまり、僕はレヴィナス先生に「弟子入り」宣言をなした1987年から四半世紀にわたり「責任」について考え続けてきたということになります。
ですから、問いに対する僕の答えはシンプルです。でも、その理由を語るためにはいささか長い紙数が必要になります。
問いはこうでした。「責任を取るということは可能でしょうか?」
答え、「不可能です」
以上。おしまい。
シンプルですよね。でも、どうして責任を取るということが不可能なのか、その理路を語るためには、ずいぶん長いお話に付き合ってもらわなければなりません。そのご用意はよろしいかな。トイレに行きたい人はいまのうちに、コーヒーなんか飲みながらの方がいいなと思う人はいまのうちにお支度をどうぞ。
さて、用意はよろしいですか。では、話を始めます。
「ごめん」で済む話はない
人を傷つけたり、人が大切にしているものを損なったりした場合、それを「復元する」ということは原理的に不可能です。
仮にすばらしく医学が発達していて、多少の怪我なら死者でも蘇生させることができる世界があったとします。そこで、誰かがあなたを殺しました。それもけっこうえげつないやり方で。斧で首を切り落とすとか、チェーンソーで胴体まっぷたつとか。でも、すぐに病院に運び込んだら、失血死した死者を医師たちがさくさくと縫い合わせて、傷跡をきれいにして、どんと心臓に電気ショックを送ったら、あなたは無事に蘇生しました。病院に運んだりする手間はぜんぶ殺人者が整えてくれました。もちろん、医療に要した費用も彼が払いました。
さて、この場合、「いったん殺したけれど、きれいに元通りにしたから、これでチャラね」と殺人者が言ったとして、あなたはそれを許せますか?
もし、責任を取るというのが、「損なわれたものを原状に復す」ということを意味するなら、この殺人者はたしかに責任を取ったことになる。
でも、「冗談じゃない」と皆さんは思うでしょう?
斧で首を切られて殺されたときの不快感と絶望感は、傷跡が生理学的にどれほどきれいに縫い合わされたからと言って、それで消えるものじゃない。その経験は人間の深いところにある、何かピュアで無垢なものを取り返しのつかないしかたで壊してしまった。そこで失われたものはどんな手立てを尽くしてももう復元できません。
別にそこまで極端な例を挙げなくても、ふだんの生活でも、復元というのは不可能だということはわかりますね。
あなたが配偶者とか恋人に向かって「あなたのその性根の卑しいところが私は我慢できないの」とか「おまえさ、飯食うときに育ちの悪さが出っからよ、人前でいっしょに飯食うのやなんだよ、オレ」とか、そういうめちゃくちゃひどいことを言ったとします。でも、言ったあとに「これはあまりにひどいことを申し上げた」と深く反省して、「さっきのなしね。ごめんね。つい、心にもないことを言ってしまって……」と言い訳しても、もう遅いですよね。もう、おしまいです。復元不能。
世の中には、「ごめん」で済む話もあれば、「ごめん」で済まない話もある。そして、たいていの話は(満員電車の中で足を踏んじゃったとかいう、ほんとうにささいな事例以外は)「ごめんじゃ済まない」話なんです。足踏まれたくらいでさえ、「てめ、このやろう」と逆上して、刺しちゃう奴とかいるくらいですから。
「ごめんで済む話」はこの世にない、と。そう思っていいたほうが無難だと思います。

続く、、
  


「職場より家庭がストレス?」4

2018年07月17日

 ジェントルマン at 09:00  | 誠晴會だより
日経ビジネスon line より(一部省略)
「職場より家庭がストレス?」 最新研究の驚くべき結果 4
働き方だけでなく、新しい家族のあり方も考えたい
河合 薫
2014年6月10日(火)

「朝食を家族でとる」子どもはストレスに強い
 つい先日も、「朝食を家族とほとんど毎日一緒に食べる」と答えた人が48%で、同様の調査を始めた平成21年度以来、過去最低で初めて50%を割り込んだとの報道があった(内閣府 25年度版食育白書)。
 実は、家族で朝食をとることは、家族のメンバーの結びつきを強め、人生満足度を高め、ストレス対処力を向上させることが、国内外の調査で明らかになっているのだ。
 私の大学院の指導教官だった山崎喜比古先生が、1990年に行った調査でも、「家族で朝食をとる」ことの重要性が示され、当時、「帰宅遅くとも大丈夫?!」という見出しで報じられ話題になった。
 出宅は午前7時54分、帰宅は22時26分と、帰宅のかなり遅い夫でも、「朝食だけは家族揃ってとっている」とした家庭では、夫婦間の満足度が高く、家族の結びつきが強かったのである。
 また、少ないサンプルではあるが、私が行ったインタビュー調査でも、家族で朝食をとっている家庭では、「行ってきます」「行っていらっしゃい」、「ただいま」「お帰り」という当たり前の会話があり、余暇はリビングなどで、家族でテレビを見たり世間話をしたりする傾向が認められていた。そして、何よりも、家族のメンバーの人生満足度が高かった。
 アメリカで小学生の子供たちを対象にした調査でも、「朝食を家族でとる」とした子どもは、ストレスに強く、自立心があり、人生に対する満足度が高いという報告がされている。
 なぜ、朝食なのか? その明確なメカニズムはわかっていない。
 だが、1人でご飯を食べるより、誰かと一緒のほうが美味しいし、1人で歯を磨くより、誰かと一緒に磨くほうが楽しい。朝食を食べるルーティンがあれば、前日の“穴”だって、埋めることができる。「昨日は遅くなってごめん」「昨日は、言い過ぎて悪かった」。そんなポジティブな感情にリセットするための装置が、朝食にある。そんな風に考えることはできないだろうか?
 1人暮らしが増え、核家族が当たり前になり、朝の忙しい時間を、「効率的に使いたい!」という気持ちが、いくつものルーティンを葬った。だって、ルーティンがなくとも困ることは一つもないし、何よりもめんどくさい。そんななくなっても困らない、めんどくさいことの中に、私たちの心の栄養分となる“大切なモノ”があったのかもしれない、などと思ったりもする。
 ちなみに、私は数年前から、「携帯メールを覚えるために」と始めた、父からの“おはようメール”が、毎朝のルーティンになっている。「おはよ―(*^^)v 今日はパパは何の予定もありません!」「おはよー(*^^)v昨日はゴルフコンペで優勝して、最高でした!」――。そんな父からのノー天気メールに、忙しい朝の時間に返信するのは、正直めんどくさい。だが、父親の新たな一面を発見できたり、思わずクスリと笑ってしまうこともある。
 いずれにしても、新しい働き方を模索するように、新しい家族、家庭のあり方をあれこれ考えてみる価値は十分ある。だって、「職場のほうがストレスがない」だなんて、ちょいと、虚しいじゃないですか……。


  


「職場より家庭がストレス?」3

2018年07月10日

 ジェントルマン at 09:00  | 誠晴會だより
日経ビジネスon line より(一部省略)
「職場より家庭がストレス?」 最新研究の驚くべき結果 3
働き方だけでなく、新しい家族のあり方も考えたい
河合 薫
2014年6月10日(火)

職場と家庭の逆転?
 家事は退屈で報いがない……か。 「ちょっと主婦の仕事を舐めないでよ!」と、このコメントに口を尖らせている人もいるに違いない。
 少しばかり補足しておくと、ダスマク准教授の見解は、「時間の板挟み状態(Time Bind)」の中に書かれていたホックシールド名誉教授の指摘を、シンプルかつ、彼の言葉で表現したもの。つまり、何も「家事は無意味だ!」「家庭生活は不毛だ!」と言ってるわけじゃない。
 ホックシールドは、1990年代、全米有数のファミリーフレンドリー企業(仕事と家庭の両立に積極的に取り組んでいる企業)に勤めるワーキングマザーたちが、時短勤務や在宅勤務などの制度を使わず、自ら進んで、子供と過ごす時間を、時間外労働にあてている事実に直面した。
 なぜ、彼らは、職場で時間を費やすのか? 家庭でいったい何が起きているのか?
 そこで明らかになったのが、“職場と家庭の逆転”だったのである。
 非人道的な場所だった職場は、生産性向上のために、必死に労働環境の改善に努めた。
 人を大切にする企業であればあるほど、「やればやっただけ」評価し、職場の人間関係を円滑にし、「家庭を犠牲にしなくていいぞ。自分のペースで働いてくれ」と、さまざまな制度を充実させ、やさしい言葉を投げかけた。
 その結果、働く人たちにとって、職場は、魅力的な場所になった。
 一方、仕事で疲れ果てて家に帰っても、やさしい言葉でねぎらってくれる人は誰もいない。常に時間に追われ、夫とは家事や育児で度々衝突し、反抗期の子どもに悩まされる。仕事以上に、思った通りにことは運ばない。

家庭の息苦しさから逃れたくて仕事に没頭
 「家庭がいちばん」「家族との時間を大切にしたい」と思いながらも、家庭にいるときの息苦しさから逃れたくて、仕事に没頭する。「子どもに悪い」「夫に申し訳ない」と思いながらも、仕事を選ぶ“もうひとりの自分”がいる。
 母との大切な時間が減り、寂しい子どもたちは、母親の注意をひこうとわざと反抗したり、問題を起こす。そんな子どもとの関係を繕うための、“サードシフト(第3の勤務)”に母親たちは、さらに疲弊する。まさしく、「時間の板挟み状態(Time Bind)」。仕事と家庭が複雑に絡み合い、苦悩する母親たちの存在が浮き彫りになった。
 「労働が苦痛でしかないよりは、仕事の喜びを感じ、職場で誇りを持てるほうが幸せだろう。だが、これは子どもの犠牲のうえに成立している。職場環境の改善ばかりが注目されるが、家庭のあり方も同時に考えるべきじゃないのか?」
 そう、ホックシールドは世間に訴えたのである。
 家庭と両立させるために、私たちは、職場環境の改善にはつとめるが(今なお、その試みは半分にも到達していない企業も多いが……)、家庭生活の改善に、どこまで取り組めているのだろうか? 家庭でもっと充足感を得るには、どうしたらいいのか? 家族とは何か? そんな疑問を、投げかけたのだ。
 そして、今回。この問いは、すべての人々に向けられたといっても過言ではない。
 もちろんこの調査がそのまま一般化できるものではないし、Time Bindを検証するとしながらも、時間的切迫度は調べていないのには少々問題があるようにも思う。
 確かに、研究グループが指摘するように、「仕事」には、人間の健康を向上させる効果があるのは、古くから多くの学者たちによって確かめられてきたし、私自身、「仕事でしか得られない満足感ってある」と常々感じているので、ダスマク准教授の見解に賛成ではある。
 だが、もっと「家庭」の要因の考察を、深めてもよかったのではないか。家庭でストレスを感じている“謎”に、もっと言及すべきだったと思う。
 なぜ、家庭が、“独身貴族”(古い言い方ですね)たちにとっても、ストレスの場となってしまったのか? かつての「家庭」にあって、今の「家庭」にないもの。職場にあって、家庭にないもの。それって、何?
 私は、家庭には「ルーティン(日常の習慣)」がない! いや、消えつつある。そう考えている。
 ルーティンとは、2人以上のメンバーを巻き込んだ観察可能な日々の反復性のある行動で、平たく言うと、「日々の“当たり前”を、誰かと一緒にやるのが当たり前になっている」ことである。
例えば、朝食。かつて、朝食は家族で取るのが当たり前だった。私が子どものときは、父親は起きたときには既に会社に行っていたが、母と兄と3人で毎朝、当たり前のように朝食を食べた。だが、最近は1人で朝食を食べる子どもがいたり、ご飯を食べずに父親は会社に行ったり、それぞれの生活時間に合わせて、効率的に“朝”を過ごしている。
続く