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格差について
「格差について 」...2021年9月25日 内田樹研究室より(省略改訂版)

階層格差が拡大している。所得格差の指標であるジニ係数は格差が全くない状態を1、一人が全所得を独占している状態を1とするが、日本のジニ係数は1981年が0.35、2021年は0.56と上がり続けてる。この勢いはこの先も止まらないだろう。
格差拡大の要因は、終身雇用・年功序列という雇用の仕組みが日本から消えたからだ。
植木等の「ドント節」(作詞青嶋幸男)は「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」というインパクトのあるフレーズから始まる。本当にあの頃は随分と気楽なものだった。
60年代はじめのサラリーマンの日常を活写した小津安二郎の映画では、サラリーマンたちは小料理屋の小上がりで昼間からビールの小瓶を飲んで、午後のお勤めに出かけていた。もちろん全員定時に帰る。私の父もそうだった。毎日、同じ電車で出勤し、同じ電車で帰ってきた。雨が降ると、駅前には傘を持って父親を迎えにきた子供たちが並んでいた。今の人には信じられないだろう。だが、人々がこの判で捺したようなルーティンを営んでる時代に、日本経済は信じられないほどの急角度で成長していたのである。


それはこの時代の日本人が大変効率よく仕事をしていたからだと思う。どうして効率が良かったかというと。「査定」や「評価」や「参課」に無駄な時間や手間をかけなかったからである。
年功序列というのは「勤務考課をしない」会社である。誰にどういう能力があるかは仕事をしていれば分かる。人を見て、その能力に相応しいタスクを与えればいい。別に査定したり、格付けをしたりする必要はない。難しいタスクを手際よくこなしてくれたら、上司は「ありがとう」と部下の肩を叩いて「今度一杯奢るよ」くらいで済んだ。この時代の日本には査定する仕事=「ブルショット・ジョブ」が少なかったのだ。
「ブルショット・ジョブ」とは人類学者デビット・グレーヴァーの定義によれば「被雇用者本人でさえ、その孫座を正当化しがたいほど完璧に無意味で、不必要で、有害でもある雇用の形態」のことである。
それなしでは社会が成り立たない仕事を「エッセンシャル・ワーク」と呼ぶ。公共交通機関やライフラインの管理運営、行政や警察や消防や、医療や学校教育、衣食住の必需品の精算・流通は「エッセンシャル・ワーク」である。それがきちんと機能していないと世の中が回らない。一方、いなくなっても誰も困らない仕事をする「ブルショット・ジョブ・ワーカー」たちは「エッセンシャル・ワーカー」がちゃんと働いているかどうか管理したり、勤務考課したり、「合理化」したり、組織が上意下達的であることを確認することを主務とする人々である。そして、この人たちの方が「エッセンシャル・ワーカー」よりもはるかに高い給料をもらっている。
不条理な話だが、ソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』によれば、人類が農業を始めてからずっとそうであった。実際に労働している人たちが社会の最下層に格付けされ、自分では価値もない創出しないで奇食している王侯貴族や軍人や聖職者たちの方が豊かな暮らしをする。
今日本では格差が拡大しているのは「いかなる価値も創出せず、下層民の労働に寄生していばってる人たち」が増えているからだ。一部の人が天文学的な個人資産を蓄え、圧倒的多数が貧しくなり、集団全体としては貧しくなる。

この不具合を解消する手立てはあるのだろうか。
格差解消に、公権力が強権的に富裕層から召し上がった富をいったん国庫に収めた後、細分配を行うのは難しい。歴史上、ほとんどの「強権的再分配」は失敗している。権力を手に入れた後に「公庫」と「自分の財布」の区別ができる人間は例外的である。
だから、いくら「有閑階級」が「ブルショット・ジョブ」で高禄を食んでいても、彼らの懐にダイレクトに手を突っ込んで、他の誰かの懐にねじ込むというやり方は止した方がいい。たいていの場合、それは更なる社会的不平等をもたらすだけである。
それよりは富裕層が自ら「公共財」として、パブリックドメインに供託するのがよいと思う。「みんながすぐに使えるもの」にするのである。学校とか、病院とか、図書館とか、美術館とか、体育館とか、あるいは森や野原や湖沼や海岸というかたちあるものにして、「さあ、皆さんご自由にお使いください。」と言って差し出すのである。
私が「コモンの再生」ということを主張している時に考えているのはそういうイメージである。
できるだけ「私有財」のエリアを抑制して、「公共財」のエリアを広げるのだ。
コモン(Common)というのは中世の英国にあった村落共同体の共有地のことである。村人たちはそこで牧畜をし、鳥獣を狩り、魚を釣り、果樹やキノコを採った。コモンが広く豊かであればあるほど、村人はたちの生活もまた豊かなものになった。コモンが消滅したのは、「こんな使い方をしていたのではカネにならない」と言って、私有地として買い上げて、牧羊したり、商品作物を栽培したりする「目端の利いたやつ」が出てきたせいである。「囲い込み」が行われて、コモンは消滅し、農民たちは没落して都市プロレタリアートになり、産業革命のための労働力を提供し、資本主義が繁栄することになった。

そうやってコモンが消滅したなら、「コモンの再生」はそのプロセスを逆にたどることになる。それは私有財を「これをみんなで使ってください」といって公共財として差し出すことである。
「そんなのは絶対嫌だ」といって、私有財にしがみつく人間はもちろんいるだろう。いて当然である。その人間たちから強権的に奪うべきではない。それは前にやって失敗した。「いやだ」という人は放っておけばいい。「私財を提供してもいい」という人たちの頭数をひとりずつ増やしてゆくだけでいい。
私の道場は現在は私物だけだが、いずれ寄贈して門人たちに「コモン」として利用してもらうつもりである。そういうささやかな個人の実践の積み重ねが迂遠なようだけれど、一番確実なやり方だと思っている。
『コモンの再生』…作者:内田樹 出版社:文藝春秋
天下りのマッチポンプ、地方の過疎化、アンチ・グローバル化現象…… コモン(共有地)の再生が日本の活路を開く!
西部劇『シェーン』が示すコモンをめぐる原理的な主題 ・ベーシックインカムの成否を決定づける要素とは?
・トランプ現象とアンチ
・「自我の支配」から解放される瞑想のやり方……etc.
分断を超えて、新しい共同幻想が立ち上がる希望の書
※グーグルブックよりご紹介

階層格差が拡大している。所得格差の指標であるジニ係数は格差が全くない状態を1、一人が全所得を独占している状態を1とするが、日本のジニ係数は1981年が0.35、2021年は0.56と上がり続けてる。この勢いはこの先も止まらないだろう。
格差拡大の要因は、終身雇用・年功序列という雇用の仕組みが日本から消えたからだ。
植木等の「ドント節」(作詞青嶋幸男)は「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」というインパクトのあるフレーズから始まる。本当にあの頃は随分と気楽なものだった。
60年代はじめのサラリーマンの日常を活写した小津安二郎の映画では、サラリーマンたちは小料理屋の小上がりで昼間からビールの小瓶を飲んで、午後のお勤めに出かけていた。もちろん全員定時に帰る。私の父もそうだった。毎日、同じ電車で出勤し、同じ電車で帰ってきた。雨が降ると、駅前には傘を持って父親を迎えにきた子供たちが並んでいた。今の人には信じられないだろう。だが、人々がこの判で捺したようなルーティンを営んでる時代に、日本経済は信じられないほどの急角度で成長していたのである。


それはこの時代の日本人が大変効率よく仕事をしていたからだと思う。どうして効率が良かったかというと。「査定」や「評価」や「参課」に無駄な時間や手間をかけなかったからである。
年功序列というのは「勤務考課をしない」会社である。誰にどういう能力があるかは仕事をしていれば分かる。人を見て、その能力に相応しいタスクを与えればいい。別に査定したり、格付けをしたりする必要はない。難しいタスクを手際よくこなしてくれたら、上司は「ありがとう」と部下の肩を叩いて「今度一杯奢るよ」くらいで済んだ。この時代の日本には査定する仕事=「ブルショット・ジョブ」が少なかったのだ。
「ブルショット・ジョブ」とは人類学者デビット・グレーヴァーの定義によれば「被雇用者本人でさえ、その孫座を正当化しがたいほど完璧に無意味で、不必要で、有害でもある雇用の形態」のことである。
それなしでは社会が成り立たない仕事を「エッセンシャル・ワーク」と呼ぶ。公共交通機関やライフラインの管理運営、行政や警察や消防や、医療や学校教育、衣食住の必需品の精算・流通は「エッセンシャル・ワーク」である。それがきちんと機能していないと世の中が回らない。一方、いなくなっても誰も困らない仕事をする「ブルショット・ジョブ・ワーカー」たちは「エッセンシャル・ワーカー」がちゃんと働いているかどうか管理したり、勤務考課したり、「合理化」したり、組織が上意下達的であることを確認することを主務とする人々である。そして、この人たちの方が「エッセンシャル・ワーカー」よりもはるかに高い給料をもらっている。
不条理な話だが、ソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』によれば、人類が農業を始めてからずっとそうであった。実際に労働している人たちが社会の最下層に格付けされ、自分では価値もない創出しないで奇食している王侯貴族や軍人や聖職者たちの方が豊かな暮らしをする。
今日本では格差が拡大しているのは「いかなる価値も創出せず、下層民の労働に寄生していばってる人たち」が増えているからだ。一部の人が天文学的な個人資産を蓄え、圧倒的多数が貧しくなり、集団全体としては貧しくなる。

この不具合を解消する手立てはあるのだろうか。
格差解消に、公権力が強権的に富裕層から召し上がった富をいったん国庫に収めた後、細分配を行うのは難しい。歴史上、ほとんどの「強権的再分配」は失敗している。権力を手に入れた後に「公庫」と「自分の財布」の区別ができる人間は例外的である。
だから、いくら「有閑階級」が「ブルショット・ジョブ」で高禄を食んでいても、彼らの懐にダイレクトに手を突っ込んで、他の誰かの懐にねじ込むというやり方は止した方がいい。たいていの場合、それは更なる社会的不平等をもたらすだけである。
それよりは富裕層が自ら「公共財」として、パブリックドメインに供託するのがよいと思う。「みんながすぐに使えるもの」にするのである。学校とか、病院とか、図書館とか、美術館とか、体育館とか、あるいは森や野原や湖沼や海岸というかたちあるものにして、「さあ、皆さんご自由にお使いください。」と言って差し出すのである。
私が「コモンの再生」ということを主張している時に考えているのはそういうイメージである。
できるだけ「私有財」のエリアを抑制して、「公共財」のエリアを広げるのだ。
コモン(Common)というのは中世の英国にあった村落共同体の共有地のことである。村人たちはそこで牧畜をし、鳥獣を狩り、魚を釣り、果樹やキノコを採った。コモンが広く豊かであればあるほど、村人はたちの生活もまた豊かなものになった。コモンが消滅したのは、「こんな使い方をしていたのではカネにならない」と言って、私有地として買い上げて、牧羊したり、商品作物を栽培したりする「目端の利いたやつ」が出てきたせいである。「囲い込み」が行われて、コモンは消滅し、農民たちは没落して都市プロレタリアートになり、産業革命のための労働力を提供し、資本主義が繁栄することになった。

そうやってコモンが消滅したなら、「コモンの再生」はそのプロセスを逆にたどることになる。それは私有財を「これをみんなで使ってください」といって公共財として差し出すことである。
「そんなのは絶対嫌だ」といって、私有財にしがみつく人間はもちろんいるだろう。いて当然である。その人間たちから強権的に奪うべきではない。それは前にやって失敗した。「いやだ」という人は放っておけばいい。「私財を提供してもいい」という人たちの頭数をひとりずつ増やしてゆくだけでいい。
私の道場は現在は私物だけだが、いずれ寄贈して門人たちに「コモン」として利用してもらうつもりである。そういうささやかな個人の実践の積み重ねが迂遠なようだけれど、一番確実なやり方だと思っている。
『コモンの再生』…作者:内田樹 出版社:文藝春秋
天下りのマッチポンプ、地方の過疎化、アンチ・グローバル化現象…… コモン(共有地)の再生が日本の活路を開く!
西部劇『シェーン』が示すコモンをめぐる原理的な主題 ・ベーシックインカムの成否を決定づける要素とは?
・トランプ現象とアンチ
・「自我の支配」から解放される瞑想のやり方……etc.
分断を超えて、新しい共同幻想が立ち上がる希望の書
※グーグルブックよりご紹介
変化を受け入れないのは死んでるいるのと同じ
【変化を受け入れないのは死んでるいるのと同じ】

--内田樹先生のように、上手に変化に順応するのはなかなか難しいことのように感じていますが。。。。。
内田:「変化を受け入れられる/受け入れる」という言い方そのものに僕は違和感があります。それって、「変化しないこと」が標準だという前提があるから出てくる言葉でしょ?
でも、生物は変化し、複雑化し、多様化するのは本性です。
変化は「受け入れる」か「受け入れられない」かを自己決定できる対象ではありません。
変化するのが「生きる」ということです。ある状態にじっと静止して、変化しないという在り方を「死ぬ」と呼ぶのです。
つまり、変化を受け入れないということは、もはや死んでいるわけですよ。ですので「死にながら生きたいんですけど、どうしたらいいでしょう」と言われても困りますね。
--「生きるとは、変化すること」とのことですが、どのように変化し、生きることが、人間性の成熟へとつながるとお考えですか?
内田:「与えられた環境でベストを尽くす」というのが、生き物の基本です。
ですから、今回の新型コロナウイルスの発生・流行のように何か思いがけないことが起きたら、「こんなはずではなかった。元の正解に戻せ」とジタバタしても仕方がありません。
与えられた環境で、自分のパフォーマンスが最高になるためにはどうせればいいか、それを一人ひとりが自分で考えるしかない。
--どのような環境においても「考える」行為を決しておざなりにしてはならないのですね。
内田:そうですね。「考えるのがめんどくさい」というのであれば、それは脳が活性化したがっていないということですから、脳だけでなくて、心臓や肺といった全臓器が活動するのを停止したがっているということでなはないですかね?
海外の大学での研修に学生たちを連れて行ったときのことです。研修期間中は学生寮に滞在していたのですが、学生たちは、割り当てられた殺風景な寮の部屋を模様替えしたり、花を飾ったりして「自分にとって快適な空間」につくり変えてしまう子と、「あれがない、これがない、日本と違う」と文句ばっかり言っている子の2パターンに分かれるのです。
この2種類では、当然ながらそこで過ごす時間の密度も深みも違ってきます。
今の時代もそうです。いつ終わるかわからない感染症が終息するまで全時間を恐怖心や怒り怨みに支配されて生きるのは、たぶん病気に感染すること以上に身体に悪いです。
「まあ、こうなっちゃった以上は、しかたないわな」と涼しく環境の変化を受け入れて、その「日常」から引き出し得る「よきもの」をこつこつと探すというのが、「大人」の生き方なのではないかと思います。


--内田樹先生のように、上手に変化に順応するのはなかなか難しいことのように感じていますが。。。。。
内田:「変化を受け入れられる/受け入れる」という言い方そのものに僕は違和感があります。それって、「変化しないこと」が標準だという前提があるから出てくる言葉でしょ?
でも、生物は変化し、複雑化し、多様化するのは本性です。
変化は「受け入れる」か「受け入れられない」かを自己決定できる対象ではありません。
変化するのが「生きる」ということです。ある状態にじっと静止して、変化しないという在り方を「死ぬ」と呼ぶのです。
つまり、変化を受け入れないということは、もはや死んでいるわけですよ。ですので「死にながら生きたいんですけど、どうしたらいいでしょう」と言われても困りますね。
--「生きるとは、変化すること」とのことですが、どのように変化し、生きることが、人間性の成熟へとつながるとお考えですか?
内田:「与えられた環境でベストを尽くす」というのが、生き物の基本です。
ですから、今回の新型コロナウイルスの発生・流行のように何か思いがけないことが起きたら、「こんなはずではなかった。元の正解に戻せ」とジタバタしても仕方がありません。
与えられた環境で、自分のパフォーマンスが最高になるためにはどうせればいいか、それを一人ひとりが自分で考えるしかない。
--どのような環境においても「考える」行為を決しておざなりにしてはならないのですね。
内田:そうですね。「考えるのがめんどくさい」というのであれば、それは脳が活性化したがっていないということですから、脳だけでなくて、心臓や肺といった全臓器が活動するのを停止したがっているということでなはないですかね?
海外の大学での研修に学生たちを連れて行ったときのことです。研修期間中は学生寮に滞在していたのですが、学生たちは、割り当てられた殺風景な寮の部屋を模様替えしたり、花を飾ったりして「自分にとって快適な空間」につくり変えてしまう子と、「あれがない、これがない、日本と違う」と文句ばっかり言っている子の2パターンに分かれるのです。
この2種類では、当然ながらそこで過ごす時間の密度も深みも違ってきます。
今の時代もそうです。いつ終わるかわからない感染症が終息するまで全時間を恐怖心や怒り怨みに支配されて生きるのは、たぶん病気に感染すること以上に身体に悪いです。
「まあ、こうなっちゃった以上は、しかたないわな」と涼しく環境の変化を受け入れて、その「日常」から引き出し得る「よきもの」をこつこつと探すというのが、「大人」の生き方なのではないかと思います。

医療バッシングとメディア②
―内田樹先生のお考え紹介②ー
納富貴嗣
・
・
引き続きご覧になっていただき誠にありがとうございます。
今回も【医療バッシングとメディア】についての続きを書いていきたいと思いますのでお付き合い下さい。
院内暴力とメディア 2010−08−04 内田樹の研究室より抜粋

すでに何度も引用しているものだが、もう一度繰り返す。
土地、大気、土壌、水、森林、河川、海洋などの自然環境、道路、上下水道、公共交通機関、電力、通信施設などの社会的インフラストラクチャー、教育、医療、金融、司法、行政などの制度資本は、「社会的共通資本」と呼ばれる。それは、広い意味での人間の生きる「環境」を形成する。
社会の土台である。
その要件は、軽々に変化してはならないということである。
「社会的共通資本は、それぞれの分野の職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって、管理、運営されるものであるということである。
社会的共通資本の管理、運営は決して、政府によって規定された基準ないしルール、あるいは市場的基準にしたがっておこなわれるものではない。(…) 社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー (fiduciary) の原則にもとづいて、信託されているからである。」
(宇沢弘文、『社会的共通資本』、岩波新書、2000 年、22頁)
メディアは「社会的共通資本」について、これがきわめて重要な概念であることを知りながら、決して論及しない。
メディアが「社会的共通資本」に算入されていないからである。
メディア知識人が「職業的専門家」にリストアップされていないからである。
メディアは人間が生きる環境としては「あっても、なくても、どちらでもいい」と宇沢先生が思っているから、メディアはこのような理説が存在すること自体を「無視する」のである。
そして、職業的専門家以外が容喙(ようかい)すべきではないとされた、あらゆる分野に手を突っ込み、それをあるときは「政治的正しさ」にリンクし、あるときは「市場のニーズ」にリンクして、専門家によってさえコントロール不能なものにする。
人間の生きる環境そのものが人間のコントロールを離れた状態になること、それをメディアは無意識のうちに望んでいる。
「カオス」と「カタストロフ」に対する「抗い難い欲望」がメディアを駆動している(それが大衆の最高の「ニューズ」であり、そのような破局的状況においてメディアに対する市場の需要は頂点に達するからである)。
混沌と破局を求めるのは、人間の本性の一部であるから、そのような欲望を「持つな」ということは誰にも言えない。
けれども、そのような欲望に駆動されてあることについて、メディアの当事者はもう少し自覚的であってもいいのではないか。
以上、内田樹先生談。

そうなんです。メディアが「医療人は腐っていて、、」という「医療カオス」の実態を、真実も誇張も、さらに嘘も含めて取り上げた。「医療カタストロフが既にきている」という、彼らの市場の需要を最大限化する既成事実が出来上がってしまった。
そのあと大衆は、「医療人へ対する不信感」を募らせていった。このようにメディアの連中の「抗い難い欲望」にまんまと乗せられ、「医療」を主人公にした「混沌と破局の物語」を国民の多くが盲信し追随したのでした。
医療費を下げたい財務省の連中はほくそ笑み、板挟みの厚生労働省の連中はただただ殻に閉じこもった、、、
小泉さんと竹中さんは、自分らのせいで医療人が追い込まれたなんて、全く自覚すらしておらず、逆に「資本主義のセオリーに倣い、だめな病院が潰れることが正義だ!!」と確信さえしていた、、、
患者を「さま呼ばわりしない病院」は潰れればいいのだ!!と。
確かに、「医療カオス」を地でいく医療人は、確かにいます。
そういう輩こそ率先し「患者」を「さま」扱いしていたように感じます。
でも、そんなやつ、本当に、ごくごく少数です。
ほとんどの医療人はできることを真面目にコツコツやっています。
そういう普通の医療人に対するお褒めの言葉は、

「あの先生にかかって良かったね〜」「あの看護婦さん優しかったね〜」
という個人的賞賛をいただけるレベルで十分で、
サッカーの国際試合の前に30秒も拍手をもらうといった演出でいただくものでは、決してないと、感じます。(よね??????)
皆さんは、いかがですか??

納富貴嗣
・
・
引き続きご覧になっていただき誠にありがとうございます。
今回も【医療バッシングとメディア】についての続きを書いていきたいと思いますのでお付き合い下さい。
院内暴力とメディア 2010−08−04 内田樹の研究室より抜粋

すでに何度も引用しているものだが、もう一度繰り返す。
土地、大気、土壌、水、森林、河川、海洋などの自然環境、道路、上下水道、公共交通機関、電力、通信施設などの社会的インフラストラクチャー、教育、医療、金融、司法、行政などの制度資本は、「社会的共通資本」と呼ばれる。それは、広い意味での人間の生きる「環境」を形成する。
社会の土台である。
その要件は、軽々に変化してはならないということである。
「社会的共通資本は、それぞれの分野の職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって、管理、運営されるものであるということである。
社会的共通資本の管理、運営は決して、政府によって規定された基準ないしルール、あるいは市場的基準にしたがっておこなわれるものではない。(…) 社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー (fiduciary) の原則にもとづいて、信託されているからである。」
(宇沢弘文、『社会的共通資本』、岩波新書、2000 年、22頁)
メディアは「社会的共通資本」について、これがきわめて重要な概念であることを知りながら、決して論及しない。
メディアが「社会的共通資本」に算入されていないからである。
メディア知識人が「職業的専門家」にリストアップされていないからである。
メディアは人間が生きる環境としては「あっても、なくても、どちらでもいい」と宇沢先生が思っているから、メディアはこのような理説が存在すること自体を「無視する」のである。
そして、職業的専門家以外が容喙(ようかい)すべきではないとされた、あらゆる分野に手を突っ込み、それをあるときは「政治的正しさ」にリンクし、あるときは「市場のニーズ」にリンクして、専門家によってさえコントロール不能なものにする。
人間の生きる環境そのものが人間のコントロールを離れた状態になること、それをメディアは無意識のうちに望んでいる。
「カオス」と「カタストロフ」に対する「抗い難い欲望」がメディアを駆動している(それが大衆の最高の「ニューズ」であり、そのような破局的状況においてメディアに対する市場の需要は頂点に達するからである)。
混沌と破局を求めるのは、人間の本性の一部であるから、そのような欲望を「持つな」ということは誰にも言えない。
けれども、そのような欲望に駆動されてあることについて、メディアの当事者はもう少し自覚的であってもいいのではないか。
以上、内田樹先生談。

そうなんです。メディアが「医療人は腐っていて、、」という「医療カオス」の実態を、真実も誇張も、さらに嘘も含めて取り上げた。「医療カタストロフが既にきている」という、彼らの市場の需要を最大限化する既成事実が出来上がってしまった。
そのあと大衆は、「医療人へ対する不信感」を募らせていった。このようにメディアの連中の「抗い難い欲望」にまんまと乗せられ、「医療」を主人公にした「混沌と破局の物語」を国民の多くが盲信し追随したのでした。
医療費を下げたい財務省の連中はほくそ笑み、板挟みの厚生労働省の連中はただただ殻に閉じこもった、、、
小泉さんと竹中さんは、自分らのせいで医療人が追い込まれたなんて、全く自覚すらしておらず、逆に「資本主義のセオリーに倣い、だめな病院が潰れることが正義だ!!」と確信さえしていた、、、
患者を「さま呼ばわりしない病院」は潰れればいいのだ!!と。
確かに、「医療カオス」を地でいく医療人は、確かにいます。
そういう輩こそ率先し「患者」を「さま」扱いしていたように感じます。
でも、そんなやつ、本当に、ごくごく少数です。
ほとんどの医療人はできることを真面目にコツコツやっています。
そういう普通の医療人に対するお褒めの言葉は、

「あの先生にかかって良かったね〜」「あの看護婦さん優しかったね〜」
という個人的賞賛をいただけるレベルで十分で、
サッカーの国際試合の前に30秒も拍手をもらうといった演出でいただくものでは、決してないと、感じます。(よね??????)
皆さんは、いかがですか??

医療バッシングとメディア
―内田樹先生のお考え紹介①ー
納富貴嗣
昨今のコロナ騒動で、医療従事者は「居心地が悪いほど」持ち上げられているような気がします。
本来業務として「救急医療」や「救命医療」、あるいは「呼吸器感染症病棟」にご勤務されている医療スタッフは、称賛と労いを受けて当然でしょう。
しかし、我々のような末端のそのような分野とはかけ離れた職種の医療人は、オリンピック前の日本代表対スペイン代表の練習試合前に「医療従事者に対し感謝の拍手を!!」とかされてしまうと、逆に後ろめたいになります。(ですよね、、、)
「すみません、我々はコロナから必死で逃げてるだけですので、、、、」と思ってしまいます。(よね、、、)
思い出せば、ほんの10年ほど前、医療従事者は「不当なバッシング」に耐え忍んでいたものでした。
実はこのような「大衆操作」はマスコミによってなされます。
以下、内田樹先生が約10年前に書いた「院内暴力が流行ってしまった原因論」を紹介します。今の過剰な賞賛は、「バッシング再発」の引き金を引くかもしれないと自覚し、自己防衛の意味も含めて、ここで再論させてください。
院内暴力とメディア 2010−08−04 内田樹の研究室より抜粋

数年前にある大学の看護学部で講演をしたことがある。
そのとき、ナースの方たちと話す機会があった。
ナースステーションに「『患者さま』と呼びましょう」という貼り紙があったので、あれは何ですかと訊ねた。
看護学部長が苦笑いして、「厚労省からのお達しです」と教えてくれた。
そして、「患者さま」という呼称を採用してから、院内の様子がずいぶん変わりましたと言った。
何が変わったのですかと訊ねると、「医師や看護師に対して暴言を吐く患者が増えた、院内規則を破って飲酒喫煙無断外出する患者が増えた、入院費を払わないで退院する患者が増えた」と三点指折り数えて教えてくれた。
「患者さま」という呼称は「お客さま」の転用である。
医療も(教育と同じく)商取引モデルに再編されねばならないと、そのころの統治者たちが考えたのである(覚えておいでだろう。「小泉竹中」のあのグローバリズムの時代の話である)。
患者は(消費者として)「最低の代価で、最高の医療サービスを要求する」ことを義務づけられる。
その「ニーズ」に応えることのできない医療機関は遠からず「マーケット」から退場する。その結果、最高の費用対効果で、最良の医療サービスを提供する医療機関だけが「淘汰」を生き延び、日本の医療水準はますます高まる。だから、患者もまた医療機関に対して、できるだけ少ない代価で、最高のサービスを要求「すべき」なのだ。
政治家たちはそう考えた。
マスメディアもその尻馬に乗った。
その頃、私は医療における「賢い患者になろうキャンペーン」とか「インフォームド・コンセント」論といった「政治的に正しい医療論」に対して、「こんなことを続けたら、日本の医療は崩壊する」と繰り返し警告していた。
医療とはかかわりのない素人の論であったが、医療メディアは私の主張を何度も取り上げてくれた。
だが、マスメディアから「医療に関する意見」を徴されたことは過去に一度もない。
それは私の意見がマスメディアの主張とまったくなじまないものだったからである。
さすがに医療崩壊の実情を知るにつれて、最近ではメディアの医療バッシングの筆勢は衰えたが、それでも自分たちがこの現場の荒廃に「責任がある」という言葉は口にしない。
たぶん、そう思ってもいないのだろう。
・
・
・
次回に続きます
納富貴嗣
昨今のコロナ騒動で、医療従事者は「居心地が悪いほど」持ち上げられているような気がします。
本来業務として「救急医療」や「救命医療」、あるいは「呼吸器感染症病棟」にご勤務されている医療スタッフは、称賛と労いを受けて当然でしょう。
しかし、我々のような末端のそのような分野とはかけ離れた職種の医療人は、オリンピック前の日本代表対スペイン代表の練習試合前に「医療従事者に対し感謝の拍手を!!」とかされてしまうと、逆に後ろめたいになります。(ですよね、、、)
「すみません、我々はコロナから必死で逃げてるだけですので、、、、」と思ってしまいます。(よね、、、)
思い出せば、ほんの10年ほど前、医療従事者は「不当なバッシング」に耐え忍んでいたものでした。
実はこのような「大衆操作」はマスコミによってなされます。
以下、内田樹先生が約10年前に書いた「院内暴力が流行ってしまった原因論」を紹介します。今の過剰な賞賛は、「バッシング再発」の引き金を引くかもしれないと自覚し、自己防衛の意味も含めて、ここで再論させてください。
院内暴力とメディア 2010−08−04 内田樹の研究室より抜粋

数年前にある大学の看護学部で講演をしたことがある。
そのとき、ナースの方たちと話す機会があった。
ナースステーションに「『患者さま』と呼びましょう」という貼り紙があったので、あれは何ですかと訊ねた。
看護学部長が苦笑いして、「厚労省からのお達しです」と教えてくれた。
そして、「患者さま」という呼称を採用してから、院内の様子がずいぶん変わりましたと言った。
何が変わったのですかと訊ねると、「医師や看護師に対して暴言を吐く患者が増えた、院内規則を破って飲酒喫煙無断外出する患者が増えた、入院費を払わないで退院する患者が増えた」と三点指折り数えて教えてくれた。
「患者さま」という呼称は「お客さま」の転用である。
医療も(教育と同じく)商取引モデルに再編されねばならないと、そのころの統治者たちが考えたのである(覚えておいでだろう。「小泉竹中」のあのグローバリズムの時代の話である)。
患者は(消費者として)「最低の代価で、最高の医療サービスを要求する」ことを義務づけられる。
その「ニーズ」に応えることのできない医療機関は遠からず「マーケット」から退場する。その結果、最高の費用対効果で、最良の医療サービスを提供する医療機関だけが「淘汰」を生き延び、日本の医療水準はますます高まる。だから、患者もまた医療機関に対して、できるだけ少ない代価で、最高のサービスを要求「すべき」なのだ。
政治家たちはそう考えた。
マスメディアもその尻馬に乗った。
その頃、私は医療における「賢い患者になろうキャンペーン」とか「インフォームド・コンセント」論といった「政治的に正しい医療論」に対して、「こんなことを続けたら、日本の医療は崩壊する」と繰り返し警告していた。
医療とはかかわりのない素人の論であったが、医療メディアは私の主張を何度も取り上げてくれた。
だが、マスメディアから「医療に関する意見」を徴されたことは過去に一度もない。
それは私の意見がマスメディアの主張とまったくなじまないものだったからである。
さすがに医療崩壊の実情を知るにつれて、最近ではメディアの医療バッシングの筆勢は衰えたが、それでも自分たちがこの現場の荒廃に「責任がある」という言葉は口にしない。
たぶん、そう思ってもいないのだろう。
・
・
・
次回に続きます
誠晴會新人研修
【誠晴會新人研修】
7月14日に誠晴會の新人研修を行いました‼️
場所は吉野ヶ里にあるフォレストアドベンチャーで新人さん達で研修用プログラムを受講しました‼️
.
内容は、まずお互いを知り少しづつ壁を無くしていく所から始まり最後は相手への気遣いであったり話の伝え方などを学びました。
研修の最後の方では皆さん和やかな雰囲気で楽しんでくれていました‼️




気温の高い中での研修でしたが最後までやり遂げて、お昼も全員で頂きました
皆さんお疲れ様でした
.
7月14日に誠晴會の新人研修を行いました‼️
場所は吉野ヶ里にあるフォレストアドベンチャーで新人さん達で研修用プログラムを受講しました‼️
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内容は、まずお互いを知り少しづつ壁を無くしていく所から始まり最後は相手への気遣いであったり話の伝え方などを学びました。
研修の最後の方では皆さん和やかな雰囲気で楽しんでくれていました‼️



気温の高い中での研修でしたが最後までやり遂げて、お昼も全員で頂きました
皆さんお疲れ様でした
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鹿島市ラムサール登録湿地新籠海岸の清掃活動
おはようございます!
蒸し暑い時期なってきましたね。
無理なさらず、早めの水分補給を意識しましょう
6月13日(日)に鹿島市ラムサール条約推進室が主催した
鹿島市新籠海岸の清掃活動に誠晴會で参加してきました‼️
雨が心配でしたが無事に晴れてくれました❗️
その分暑かった....
朝早くからの清掃活動でしたが、職員さん達が頑張ってくれたおかげで有明海が綺麗になったのではないでしょうか✨
こういった活動に集まってくれる職員さん達に感謝です‼️



蒸し暑い時期なってきましたね。
無理なさらず、早めの水分補給を意識しましょう
6月13日(日)に鹿島市ラムサール条約推進室が主催した
鹿島市新籠海岸の清掃活動に誠晴會で参加してきました‼️
雨が心配でしたが無事に晴れてくれました❗️
その分暑かった....
朝早くからの清掃活動でしたが、職員さん達が頑張ってくれたおかげで有明海が綺麗になったのではないでしょうか✨
こういった活動に集まってくれる職員さん達に感謝です‼️



「正常バイアス」
内田先生が考える対コロナ時代の心構え=正常バイアスのアティチュード
納富 貴嗣
「内田樹を読もう会」という床屋でおじちゃんがする会話の延長みたいな勉強会(がものすごく発展しちゃった、、、)を続けていましたが、このコロナ騒動で、開催する勇気をそがれています。自分自身とすれば、「定期的な継続」が理想的なのですが、「もしも」のことがあれば、「なにが」そのあと起こるかわからない。しかも、おそらく悪いこと、、
しかし、内田樹先生のこの文章に触れて、そんな弱気な考えに対し、再考を迫られちゃったな~と感じました。
内田先生から「納富君??正常バイアスを解除しないといけないんじゃない?」と戒めてくださったと感じた次第です。
以下、時間がある方はお読みください。
コロナウイルスの感染拡大でも、「自分は感染しない。感染しても軽症で済む。他人に感染させることはない」というふうに考える正常性バイアスが働く。必ず働く。だが、非常時というのは正常性バイアスがもたらすリスクが劇的に高まる事態のことなのである。だから、どこかで平時から非常時にコードを切り替えて、正常性バイアスを解除しなければならない。
問題は「正常性バイアスを解除する」というのがどういうふるまいのことか、よくわかっていないということである。
それを「いたずらに恐怖する」「過剰に不安になる」というふうに解釈すると、正常性バイアスの解除は困難になる。いかにも「恰好悪い」し、どう考えても「生きる力を高める」ふるまいではないように思えるからである。恐怖や不安に取り憑かれて浮足立っている人間と、非常時にもふだん通りに落ち着いている人間のどちらが「危機的状況を生き延びられるか?」と考えたら、誰でも後者だと思う。
『史上最大の作戦』では、ノルマンディー上陸作戦で最悪の戦場となったオマハビーチで、ドイツ軍の機関銃掃射を受けながら葉巻をくわえて海岸を歩くノーマン・コータ准将の姿が活写されている。彼の落ち着いた適切な指示によって連合軍兵士は防御線の突破に成功するわけだが、彼はどう見ても恐怖心に取り憑かれているようには見えない。だが、彼は「正常性バイアス」に固着していたからそうしたわけではない。歴戦の軍人としてちゃんと「非常時」へのスイッチ切り替えを行っているのである。それは「自分が見ているものだけに基づいて状況を判断しない」という節度を持つことである。
正常性バイアスの解除とはいたずらに怖がることではなく、自分が見ているものだけから今何が起きているかを判断しない。自分が現認したものの客観性・一般性を過大評価せず、複数の視点から寄せられる情報を総合して、今起きていることを立体視することである。
以下省略(大事だけど、、)
2020年11月4日 内田樹の研究室より
納富 貴嗣
「内田樹を読もう会」という床屋でおじちゃんがする会話の延長みたいな勉強会(がものすごく発展しちゃった、、、)を続けていましたが、このコロナ騒動で、開催する勇気をそがれています。自分自身とすれば、「定期的な継続」が理想的なのですが、「もしも」のことがあれば、「なにが」そのあと起こるかわからない。しかも、おそらく悪いこと、、
しかし、内田樹先生のこの文章に触れて、そんな弱気な考えに対し、再考を迫られちゃったな~と感じました。
内田先生から「納富君??正常バイアスを解除しないといけないんじゃない?」と戒めてくださったと感じた次第です。
以下、時間がある方はお読みください。
コロナウイルスの感染拡大でも、「自分は感染しない。感染しても軽症で済む。他人に感染させることはない」というふうに考える正常性バイアスが働く。必ず働く。だが、非常時というのは正常性バイアスがもたらすリスクが劇的に高まる事態のことなのである。だから、どこかで平時から非常時にコードを切り替えて、正常性バイアスを解除しなければならない。
問題は「正常性バイアスを解除する」というのがどういうふるまいのことか、よくわかっていないということである。
それを「いたずらに恐怖する」「過剰に不安になる」というふうに解釈すると、正常性バイアスの解除は困難になる。いかにも「恰好悪い」し、どう考えても「生きる力を高める」ふるまいではないように思えるからである。恐怖や不安に取り憑かれて浮足立っている人間と、非常時にもふだん通りに落ち着いている人間のどちらが「危機的状況を生き延びられるか?」と考えたら、誰でも後者だと思う。
『史上最大の作戦』では、ノルマンディー上陸作戦で最悪の戦場となったオマハビーチで、ドイツ軍の機関銃掃射を受けながら葉巻をくわえて海岸を歩くノーマン・コータ准将の姿が活写されている。彼の落ち着いた適切な指示によって連合軍兵士は防御線の突破に成功するわけだが、彼はどう見ても恐怖心に取り憑かれているようには見えない。だが、彼は「正常性バイアス」に固着していたからそうしたわけではない。歴戦の軍人としてちゃんと「非常時」へのスイッチ切り替えを行っているのである。それは「自分が見ているものだけに基づいて状況を判断しない」という節度を持つことである。
正常性バイアスの解除とはいたずらに怖がることではなく、自分が見ているものだけから今何が起きているかを判断しない。自分が現認したものの客観性・一般性を過大評価せず、複数の視点から寄せられる情報を総合して、今起きていることを立体視することである。
以下省略(大事だけど、、)
2020年11月4日 内田樹の研究室より
燃え尽き症候群に陥らない③
●対策は「深層心理」と「仕事としての割り切り」
感情的不協和に陥らないようにするためには一体どのようなことに気をつければいいのでしょうか。他者から感情をぶつけられたときに自分に湧き上がってくる感情を意識しながら、その感情の逆の表層演技をするのでなく、もう一つ意識を高め、所属する組織を意識した深層演技をすればいいのです。
例えば、外来で患者からいつまで待たせるんだ‼と怒鳴られても、「外来の順番が遅れたのは私のせいではないのに」と思うのではなく、「全員が同じ病院の一員である自覚を持ち、自分も含め責任は全員にある」などと思い込むようにする、といった具合です。このモードにするには、個人から組織人へのモードの変換が必要です。例えば、制服に着替えるのにはそのような意味があるのです。着替える時のコツもあります。「着替えるときは必ず右腕から袖を通す」とか、どんな行為でも構わないので自分なりの決まりごと(ルーティン)を使ってください。重要なのは、そのルーティンをした瞬間に、自分自身を「プライベートモード」から「仕事モード」へと切り替えるという感覚を持つことです。それによって、深層演技がよりスムーズにできるようになる可能性が高まります。
感情的不協和に陥らないようにするためには一体どのようなことに気をつければいいのでしょうか。他者から感情をぶつけられたときに自分に湧き上がってくる感情を意識しながら、その感情の逆の表層演技をするのでなく、もう一つ意識を高め、所属する組織を意識した深層演技をすればいいのです。
例えば、外来で患者からいつまで待たせるんだ‼と怒鳴られても、「外来の順番が遅れたのは私のせいではないのに」と思うのではなく、「全員が同じ病院の一員である自覚を持ち、自分も含め責任は全員にある」などと思い込むようにする、といった具合です。このモードにするには、個人から組織人へのモードの変換が必要です。例えば、制服に着替えるのにはそのような意味があるのです。着替える時のコツもあります。「着替えるときは必ず右腕から袖を通す」とか、どんな行為でも構わないので自分なりの決まりごと(ルーティン)を使ってください。重要なのは、そのルーティンをした瞬間に、自分自身を「プライベートモード」から「仕事モード」へと切り替えるという感覚を持つことです。それによって、深層演技がよりスムーズにできるようになる可能性が高まります。
燃え尽き症候群に陥らない②
●客室乗務員と債権回収人は、 どちらも「感情労働」を強いられる典型例
博士は、感情労働の典型例として、同じ航空会社に勤めている客室乗務員と債権回収人にスポットを当てました。前者は、全ての乗客に対して常に笑顔で接し、丁寧なおもてなしをすることが職務として要求され、後者はフライト代金の未払い分を顧客から回収するために表情や口調をあえて厳しいものにし、時には威嚇することまでもが仕事の一部となります。
一見、真逆の職務内容に思えますが、両者には1つの共通点がありました。それは「職務上適切な、もしくは不適切な感情表現が決められており、それに従った感情の管理を求められる」という点です。
ようするに、感情労働は、職業ごとにマニュアルで明示的に、もしくは暗黙裡に定められた感情管理を行って、顧客に満足感や安心感、購買意欲といった感情を抱かせることを目的に行われるのです。
内心ではイライラしているのに笑顔を作らなければいけない場合、実際の感情経験と仕事上の感情表現には「ズレ」が生じます。このような感情の不一致状態を「感情的不協和」と呼び、これが感情労働者にとって大きなストレス要因であることが先行研究によって明らかになっています。
特に看護師などの対人援助職を対象とした調査では、感情的不協和が不安や不眠、うつ傾向といったストレス反応や、バーンアウト8燃え尽き症候群)につながる可能性があることが報告されています。
燃え尽き症候群の症状としては、
(1)精神的にぐったりと疲れ果ててしまう、
(2)人と関わることが嫌になってコミュニケーションをとるのが面倒になってしまう、
(3)仕事上の個人的なやりがいや達成感が失われてしまったりする、などが挙げられます。
さらに、感情的不協和は労働者の職務満足度を下げることや転退職しようとする意図を促すこと、また、血圧を急激に増加させることなども指摘されており、働く人々の心身にさまざまなマイナス影響を及ぼす可能性があるのです。
博士は、感情労働の典型例として、同じ航空会社に勤めている客室乗務員と債権回収人にスポットを当てました。前者は、全ての乗客に対して常に笑顔で接し、丁寧なおもてなしをすることが職務として要求され、後者はフライト代金の未払い分を顧客から回収するために表情や口調をあえて厳しいものにし、時には威嚇することまでもが仕事の一部となります。
一見、真逆の職務内容に思えますが、両者には1つの共通点がありました。それは「職務上適切な、もしくは不適切な感情表現が決められており、それに従った感情の管理を求められる」という点です。
ようするに、感情労働は、職業ごとにマニュアルで明示的に、もしくは暗黙裡に定められた感情管理を行って、顧客に満足感や安心感、購買意欲といった感情を抱かせることを目的に行われるのです。
内心ではイライラしているのに笑顔を作らなければいけない場合、実際の感情経験と仕事上の感情表現には「ズレ」が生じます。このような感情の不一致状態を「感情的不協和」と呼び、これが感情労働者にとって大きなストレス要因であることが先行研究によって明らかになっています。
特に看護師などの対人援助職を対象とした調査では、感情的不協和が不安や不眠、うつ傾向といったストレス反応や、バーンアウト8燃え尽き症候群)につながる可能性があることが報告されています。
燃え尽き症候群の症状としては、
(1)精神的にぐったりと疲れ果ててしまう、
(2)人と関わることが嫌になってコミュニケーションをとるのが面倒になってしまう、
(3)仕事上の個人的なやりがいや達成感が失われてしまったりする、などが挙げられます。
さらに、感情的不協和は労働者の職務満足度を下げることや転退職しようとする意図を促すこと、また、血圧を急激に増加させることなども指摘されており、働く人々の心身にさまざまなマイナス影響を及ぼす可能性があるのです。
燃え尽き症候群に陥らない①
●笑顔や明るい声で仕事することを 当然のように課せられる
「感情労働」
感情労働という言葉はアメリカの社会学者であるアーリー・ホックシールド博が、自著である『The Managed Heart』の中で取り上げたことをきっかけに急速に広まりました。
この本が出版されたのは1983年ですが、日本国内でも2000年に翻訳版が出版されています(『管理される心―感情が商品になるとき―』 ホックシールド. A.R.石川准・室伏亜希(訳) 世界思想社)。
ホックシールド博士いわく、感情労働とるために行う感情の管理であり、それは賃金と引き換えに売られるため<交換価値>を有する」と定義されます。
感情労働者には、サービスや商品を提供する際に笑顔や明るい声などを作り出すことが業務の一部として当然のように課せられており、それに対する報酬も給与に含まれているというわけです。
すなわち、感情労働とは、頭脳労働における頭脳(専門的な知識や情報処理能力)や肉体労働における肉体(筋力などの身体能力)のように、感情を仕事に欠かせないツールとして用いる労働形態の一種といえるでしょう。
「感情労働」
感情労働という言葉はアメリカの社会学者であるアーリー・ホックシールド博が、自著である『The Managed Heart』の中で取り上げたことをきっかけに急速に広まりました。
この本が出版されたのは1983年ですが、日本国内でも2000年に翻訳版が出版されています(『管理される心―感情が商品になるとき―』 ホックシールド. A.R.石川准・室伏亜希(訳) 世界思想社)。
ホックシールド博士いわく、感情労働とるために行う感情の管理であり、それは賃金と引き換えに売られるため<交換価値>を有する」と定義されます。
感情労働者には、サービスや商品を提供する際に笑顔や明るい声などを作り出すことが業務の一部として当然のように課せられており、それに対する報酬も給与に含まれているというわけです。
すなわち、感情労働とは、頭脳労働における頭脳(専門的な知識や情報処理能力)や肉体労働における肉体(筋力などの身体能力)のように、感情を仕事に欠かせないツールとして用いる労働形態の一種といえるでしょう。
カント、啓蒙とは何か?より。
啓蒙とは、「無知蒙昧な状態を啓発して教えを導くこと」である。
何が「無知蒙昧」なのか?
「自分達の問題は、自分達で解決できるということを知らないこと」である。
具体的にひとつ挙げるとするならば、「人が組織を去るということを妨げる努力は自分達で出来る」ということだ。
本日は、そこに的を絞り、それぞれが、公的視点を持ち、自らの組織をより良いものに仕上げるための方策を見いだしてもらいたい。
カントは、いう。
「啓蒙とは何か。それは、人間がみずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないかではなく他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから、人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる」。
「自分の頭で」「いかなる枠組みからも自由に」考えることの反対は、「他人の指示を仰ぐ」ことである。
カントは別の箇所で「考えるという面倒な仕事は、他人が引き受けてくれる」とも書いた。
それは、既成の「枠組み」に従って考えることだ。それが「公的」と「私的」との違いなのである。
国家や政治や戦争について考えるから「公的」なのではない、実はその逆だ。
我々は、みな、私的人物であった。自らの責任で未成年の状態に留まっていた。
私も含めてである。
今からは、組織の中の問題を私的に考えるのでなく、公的に考えてみよう。
「公的」であるとは、「枠組み」などなく考えることだ。そして、一つだけ「公的」である「枠組み」が存在している。それは「人間」であることだ。
その「人間」が、耐えられない理由で組織を去る。それを、指をくわえてただ見ているだけで、終わってはいけないのだ。
さあ、何を、どうすべきか?
指示はしない。指示を仰ぐ者から脱却させるのが目的だからである。
既成の「枠組み」から解放され、「未成年」を脱し、「自分の頭で」、「いかなる枠組みからも自由に」、「理性を使い」考えよう。
そして、よりよい組織を作るために、勇気ある行動を起こすよう祈る。
何が「無知蒙昧」なのか?
「自分達の問題は、自分達で解決できるということを知らないこと」である。
具体的にひとつ挙げるとするならば、「人が組織を去るということを妨げる努力は自分達で出来る」ということだ。
本日は、そこに的を絞り、それぞれが、公的視点を持ち、自らの組織をより良いものに仕上げるための方策を見いだしてもらいたい。
カントは、いう。
「啓蒙とは何か。それは、人間がみずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないかではなく他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから、人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる」。
「自分の頭で」「いかなる枠組みからも自由に」考えることの反対は、「他人の指示を仰ぐ」ことである。
カントは別の箇所で「考えるという面倒な仕事は、他人が引き受けてくれる」とも書いた。
それは、既成の「枠組み」に従って考えることだ。それが「公的」と「私的」との違いなのである。
国家や政治や戦争について考えるから「公的」なのではない、実はその逆だ。
我々は、みな、私的人物であった。自らの責任で未成年の状態に留まっていた。
私も含めてである。
今からは、組織の中の問題を私的に考えるのでなく、公的に考えてみよう。
「公的」であるとは、「枠組み」などなく考えることだ。そして、一つだけ「公的」である「枠組み」が存在している。それは「人間」であることだ。
その「人間」が、耐えられない理由で組織を去る。それを、指をくわえてただ見ているだけで、終わってはいけないのだ。
さあ、何を、どうすべきか?
指示はしない。指示を仰ぐ者から脱却させるのが目的だからである。
既成の「枠組み」から解放され、「未成年」を脱し、「自分の頭で」、「いかなる枠組みからも自由に」、「理性を使い」考えよう。
そして、よりよい組織を作るために、勇気ある行動を起こすよう祈る。
君が代
「君が代」って、恋愛の歌にも読めるんだよ。
「君が代」は、英語ではこう訳されました。
A thousand years of happy life be thine!
Live on, my Lord, till what are pebbles now,
By age united, to great rocks shall grow,
Whose venerable sides the moss doth line.
汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで
なにかしら政治的解釈が強いですね。でも、これは違うと思います。
「君が代」は 古今和歌集の中の、題知らず、詠み人知らずといった、マイナーな歌を
明治初期のハイセンスな「超粋」なお役人様が、国歌に選んだものです。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌になりて
苔のむすまで
ぼくが一番好きな解釈の一つを紹介します。
あなたが生きているこの世というものは、はかないのかな?
それが、千年も、いや、8千年も続けば、どんなに素敵でしょう。
小さな小石が、長い年月とともに、
大きな岩のようになって、
その、間に間に、苔が控え目に、でも、美しく輝く。
そんな、時間を、あなたと共に、過ごすことができればな~。
いま、小さな小石の間に、少しずつ、苔が生(む)して来ている気がしてるよ。
「君が代」は、英語ではこう訳されました。
A thousand years of happy life be thine!
Live on, my Lord, till what are pebbles now,
By age united, to great rocks shall grow,
Whose venerable sides the moss doth line.
汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで
なにかしら政治的解釈が強いですね。でも、これは違うと思います。
「君が代」は 古今和歌集の中の、題知らず、詠み人知らずといった、マイナーな歌を
明治初期のハイセンスな「超粋」なお役人様が、国歌に選んだものです。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌になりて
苔のむすまで
ぼくが一番好きな解釈の一つを紹介します。
あなたが生きているこの世というものは、はかないのかな?
それが、千年も、いや、8千年も続けば、どんなに素敵でしょう。
小さな小石が、長い年月とともに、
大きな岩のようになって、
その、間に間に、苔が控え目に、でも、美しく輝く。
そんな、時間を、あなたと共に、過ごすことができればな~。
いま、小さな小石の間に、少しずつ、苔が生(む)して来ている気がしてるよ。
男子における自分の痛み・他人の痛みと共感の最新知見
第27回日本思春期学会シンポジウム 抄録
男子における自分の痛み・他人の痛みと共感の最新知見
納富貴
進化は倹約的である。共感能力は感覚神経の一つである慢性疼痛の神経を利用し進化してきたと考えられる。
心理学者はこれまで認知・感情面から共感を定義してきたが、生物学者は共感の感覚面からも捕らえるべき証拠を得つつある。ひと組のマウスの一方に一定の刺激を与えると、仲のいい場合だけ、刺激を与えられていない他方のマウスの痛み閾値が低下する。つまり、感覚面での共感であり、それはげっ歯類で既に確立されているといえる(Langford DLら)。
共感の男女差については、女性に歩のいい結果が出そろっている。共感能力は言語に先立つものと考えられるが、言語能力とともに双方向的に進化してきたとSimon Baron-Cohenは述べている。なぜ、共感能力で男性は劣るのであろうか?至近要因としてはテストステロン仮説(胎児期のテストステロンが右脳半球優位にさせる=共感よりシステム化優位)、究極要因としては女性には存在する共通する肉体的痛みの体験(月経、出産、母乳吸引)の非存在性、発達要因としては成長段階での社会構造差のため、コミュニケーションスキルの向上の機会の頻度の違い、系統進化要因では狩猟時代の生活様式といった要因が、それぞれ影響をもたらしたと考えられる。
さて、精神的痛みと肉体的痛みの共通性を列挙しよう。15の言語で感情的苦痛と身体障害に共通性があることをLeary. M.は指摘している。例えば愛の表現も苦痛に満ち溢れている。実際、精神的に安定した状態ではセロトニンの脊髄下降路疼痛抑制効果により疼痛閾値は上昇している。逆に、脳内のセロトニンないしセロトニン系神経の機能低下によってもたらされるうつ状態では、慢性疼痛を訴える患者も多い。かかる患者の一部は、セロトニン再取り込み阻害剤の抗うつ剤が奏効する。Eisenbergerらのヒトを対象とした実験でも社会的疎外感を感じた被験者は前帯状野が反応していた。ここは、慢性疼痛を自覚する領域である。ヒトは共恵戦略をとり、集団生活を円滑に営む。共恵戦略に反する行為に対しては共同生活者からの厳しい目が注がれてきた。共感とはその厳しい目を読み取る能力でもあろう。社会生活において最も精神的に「心の痛み」を感じるのが集団内での疎外感であり、それは、内臓を探られているような痛みとなって自覚されるようになった。集団内での自己防衛反応のひとつとして適応的であると考えられる。
もともと、共感能力に優れ、発達要因的にも能力向上の機会に多く恵まれる女性に対し、男性ではある程度積極的関わりを持つことでその能力を向上させなければならないのかもしれない。共通する痛みの共有が共感能力を高める可能性を秘める。具体的には、厳格なしつけ、鍛練、集団内での一定の疎外感の共有などで育まれると考える。特に、社会生活を営む周囲の、時には厳しさのある密な係わり合いがあり、より効果的な能力向上が見込めると考察される。
共感能力は、共恵戦略を円滑に営むための監視システムとして、感覚神経の一つである慢性疼痛の神経を利用し倹約的進化をとげてきた。氏族内の共同生活者全体の包括適応度を向上させるためにも、「性行動」の適正化は重要な共恵戦略のひとつである。男性における共感能力の向上は、性の質の向上、性行動の慎重化など、これまでの性教育が主眼としてきた課題への解決のためのひとつの糸口になるだけにとどまらず、男性の性戦略の質的向上にも繋がる可能性を秘めると期待する。
男子における自分の痛み・他人の痛みと共感の最新知見
納富貴
進化は倹約的である。共感能力は感覚神経の一つである慢性疼痛の神経を利用し進化してきたと考えられる。
心理学者はこれまで認知・感情面から共感を定義してきたが、生物学者は共感の感覚面からも捕らえるべき証拠を得つつある。ひと組のマウスの一方に一定の刺激を与えると、仲のいい場合だけ、刺激を与えられていない他方のマウスの痛み閾値が低下する。つまり、感覚面での共感であり、それはげっ歯類で既に確立されているといえる(Langford DLら)。
共感の男女差については、女性に歩のいい結果が出そろっている。共感能力は言語に先立つものと考えられるが、言語能力とともに双方向的に進化してきたとSimon Baron-Cohenは述べている。なぜ、共感能力で男性は劣るのであろうか?至近要因としてはテストステロン仮説(胎児期のテストステロンが右脳半球優位にさせる=共感よりシステム化優位)、究極要因としては女性には存在する共通する肉体的痛みの体験(月経、出産、母乳吸引)の非存在性、発達要因としては成長段階での社会構造差のため、コミュニケーションスキルの向上の機会の頻度の違い、系統進化要因では狩猟時代の生活様式といった要因が、それぞれ影響をもたらしたと考えられる。
さて、精神的痛みと肉体的痛みの共通性を列挙しよう。15の言語で感情的苦痛と身体障害に共通性があることをLeary. M.は指摘している。例えば愛の表現も苦痛に満ち溢れている。実際、精神的に安定した状態ではセロトニンの脊髄下降路疼痛抑制効果により疼痛閾値は上昇している。逆に、脳内のセロトニンないしセロトニン系神経の機能低下によってもたらされるうつ状態では、慢性疼痛を訴える患者も多い。かかる患者の一部は、セロトニン再取り込み阻害剤の抗うつ剤が奏効する。Eisenbergerらのヒトを対象とした実験でも社会的疎外感を感じた被験者は前帯状野が反応していた。ここは、慢性疼痛を自覚する領域である。ヒトは共恵戦略をとり、集団生活を円滑に営む。共恵戦略に反する行為に対しては共同生活者からの厳しい目が注がれてきた。共感とはその厳しい目を読み取る能力でもあろう。社会生活において最も精神的に「心の痛み」を感じるのが集団内での疎外感であり、それは、内臓を探られているような痛みとなって自覚されるようになった。集団内での自己防衛反応のひとつとして適応的であると考えられる。
もともと、共感能力に優れ、発達要因的にも能力向上の機会に多く恵まれる女性に対し、男性ではある程度積極的関わりを持つことでその能力を向上させなければならないのかもしれない。共通する痛みの共有が共感能力を高める可能性を秘める。具体的には、厳格なしつけ、鍛練、集団内での一定の疎外感の共有などで育まれると考える。特に、社会生活を営む周囲の、時には厳しさのある密な係わり合いがあり、より効果的な能力向上が見込めると考察される。
共感能力は、共恵戦略を円滑に営むための監視システムとして、感覚神経の一つである慢性疼痛の神経を利用し倹約的進化をとげてきた。氏族内の共同生活者全体の包括適応度を向上させるためにも、「性行動」の適正化は重要な共恵戦略のひとつである。男性における共感能力の向上は、性の質の向上、性行動の慎重化など、これまでの性教育が主眼としてきた課題への解決のためのひとつの糸口になるだけにとどまらず、男性の性戦略の質的向上にも繋がる可能性を秘めると期待する。
「幸せの定義」
「幸せの定義」 文責:納富貴
幸せってなんでしょう??
難しいので不幸せな状態から考えましょう。
究極的には、衣食住が全く充実していない状態。しかし、現代日本人ではその状態まで陥っている人は少数派です。
感情に注目して考えてみましょう。
そこでぱっと浮かぶのが「怒った状態」「不安で不安でたまらない状態」は不幸ですよね。
仏教では、不安も怒りも同じと教えています。
怒りとは生まれた直後に生じてしまう感情です。生を受けまず行う行動は泣くことです。帝王切開で生まれた子供も泣きます。ということは新生児は狭い産道を通ることによる痛みで泣くわけではないのです。呼吸すること、つまり、自律神経+随意神経の共同作業ができたと同時に、怒りや悲しみの感情を伴う「泣く」という行動があらわれます。
これがないということはすなわち死を意味します。
人は生まれた瞬間、死への不安を抱き、怒り悲しむのです。(本当かどうかはわかりませんよ)
生まれてきたと同時に、ヒトは「怒りと悲しみ」を表現し、それは、母による温かさと母乳吸引による快感によって「安静」へと導かれます。はたからみると「喜び」の感情までは導かれていません。
感情は「喜怒哀楽」と表されますが、生まれてきたばかりの子供は陰性感情から表現をしはじめるということです。そして、保護されることにより、やっと、中間感情からやや「楽」の割合が多少入るというところまでしか感情の振り子は振幅しないわけです。
原始感情は陰性ということ。
保護されることにより中間まで戻せるが、大きく陽転化まではしないということ。
ということは、陽性感情は経験を積むことによってしか振り子の振幅幅を広げられないわけです。
陽性感情は後付です。トレーニングによって、「陽転化」を十分できた人だけが、幸せ度係数を高めることができるといってもいいでしょう。
幸せとは定義できるものではありませんが、相対論です。
比べる対象があるもの。
他人と比べると、きりがなく、結局、自分の幸せ係数は向上するはずありません。
隣の芝は青いと思う人は一生不幸せです。
自分の中に対象をもち、それは振り子の原則で、あっちいったりこっちへ来たりするものだと思えるひとは、かならず、生活の中で半分の割合で幸せに出会えます。
お腹が減らないと、食べ物はおいしくないものです。
欲しいものを我慢した経験がないと、やっと手に入れた時の嬉しさはわかりません。
お腹が減ってる時はおにぎりがあるだけで、幸せはマックスです。
これに気づけば、幸せ度係数は上がります。
それ以上に、そのお米の一粒一粒を噛みしめるたびに優しい甘さがにじみ出ることが分かれば、その人はどんなに幸せになれるでしょう!!
みんな感覚的には感じているはずなのに実感できていないですよね。この感覚。
まず、陰性感情はもともとあるものだと認識すること。次いで普段の生活の中でいかに陽性感情を作りだし、その中に意義を見出し、自分のなかで陽転化された気持ちを幸せと実感する。
日々の修行を要されますが、こうやって人は幸せ係数を上げていくのでしょう。
こういう風になれればいいですね。
いえ、こういう構造に気づくだけでもいいのです。
6月はそれぞれみなさんで「ぷち幸せ」をみつけ、感じ、噛みしめ、各々の幸せ度係数を高めるよう目指して参りましょう!!
幸せってなんでしょう??
難しいので不幸せな状態から考えましょう。
究極的には、衣食住が全く充実していない状態。しかし、現代日本人ではその状態まで陥っている人は少数派です。
感情に注目して考えてみましょう。
そこでぱっと浮かぶのが「怒った状態」「不安で不安でたまらない状態」は不幸ですよね。
仏教では、不安も怒りも同じと教えています。
怒りとは生まれた直後に生じてしまう感情です。生を受けまず行う行動は泣くことです。帝王切開で生まれた子供も泣きます。ということは新生児は狭い産道を通ることによる痛みで泣くわけではないのです。呼吸すること、つまり、自律神経+随意神経の共同作業ができたと同時に、怒りや悲しみの感情を伴う「泣く」という行動があらわれます。
これがないということはすなわち死を意味します。
人は生まれた瞬間、死への不安を抱き、怒り悲しむのです。(本当かどうかはわかりませんよ)
生まれてきたと同時に、ヒトは「怒りと悲しみ」を表現し、それは、母による温かさと母乳吸引による快感によって「安静」へと導かれます。はたからみると「喜び」の感情までは導かれていません。
感情は「喜怒哀楽」と表されますが、生まれてきたばかりの子供は陰性感情から表現をしはじめるということです。そして、保護されることにより、やっと、中間感情からやや「楽」の割合が多少入るというところまでしか感情の振り子は振幅しないわけです。
原始感情は陰性ということ。
保護されることにより中間まで戻せるが、大きく陽転化まではしないということ。
ということは、陽性感情は経験を積むことによってしか振り子の振幅幅を広げられないわけです。
陽性感情は後付です。トレーニングによって、「陽転化」を十分できた人だけが、幸せ度係数を高めることができるといってもいいでしょう。
幸せとは定義できるものではありませんが、相対論です。
比べる対象があるもの。
他人と比べると、きりがなく、結局、自分の幸せ係数は向上するはずありません。
隣の芝は青いと思う人は一生不幸せです。
自分の中に対象をもち、それは振り子の原則で、あっちいったりこっちへ来たりするものだと思えるひとは、かならず、生活の中で半分の割合で幸せに出会えます。
お腹が減らないと、食べ物はおいしくないものです。
欲しいものを我慢した経験がないと、やっと手に入れた時の嬉しさはわかりません。
お腹が減ってる時はおにぎりがあるだけで、幸せはマックスです。
これに気づけば、幸せ度係数は上がります。
それ以上に、そのお米の一粒一粒を噛みしめるたびに優しい甘さがにじみ出ることが分かれば、その人はどんなに幸せになれるでしょう!!
みんな感覚的には感じているはずなのに実感できていないですよね。この感覚。
まず、陰性感情はもともとあるものだと認識すること。次いで普段の生活の中でいかに陽性感情を作りだし、その中に意義を見出し、自分のなかで陽転化された気持ちを幸せと実感する。
日々の修行を要されますが、こうやって人は幸せ係数を上げていくのでしょう。
こういう風になれればいいですね。
いえ、こういう構造に気づくだけでもいいのです。
6月はそれぞれみなさんで「ぷち幸せ」をみつけ、感じ、噛みしめ、各々の幸せ度係数を高めるよう目指して参りましょう!!
橋本弁護士の功罪
橋本弁護士の功罪
橋本弁護士が県知事になって、まず着手した教育面でのお仕事は、確か小中学校で各地区による共通テストの成績を発表するというものでした。成績を細やかに発表し、成績が悪い地域には、反省を促し、尻を叩いてでも成績向上をするよう仕向けるという狙いがあったと思われます。
しかし、一見効率的な手法のようにそれは、本当に機能するか?考えてみましょう。
いっせいに成績が公表され、モチベーションを賦活化され「よし!!がんばろう!!」と思える階層はどの成績をとった生徒たちでしょう?恐らく、もう少し頑張れば、「一番になれる」かもしれない、極々限られた集団に限定されるような気がします。それ以外、つまり、「成績が一番であった学校の生徒」と「中間より下の成績の大多数を占める生徒」は、モチベーションに変化を来さないはずです。前者は嬉しくなって頑張ろうと思うかもしれませんが、後者は成績を提示されることにより、虚脱感を覚え、劣等感を刷り込まれ、地域や教師に対する憎悪すら感じてしまうかもしれません。そう感じる人数のほうが、圧倒的に多いと思われます。この陰性の感情起こさせることが、大阪府全体の子供たち、教師たちのためになるのでしょうか?
つまり、「子供たちが学ぶ意志をもつような環境をつくること」が行政の教育に対して精一杯できることなら、全ての成績を公開することは、逆効果ではないのでしょうか?
では、いったい、橋本さんは何を狙ったのでしょう?きっと、力関係の認識を狙ったのです。
「ほら、僕が言った通り、~~~地区の教育はなってないでしょ。その地区の先生たちは、大いに反省し、子供たちの成績向上のために努力をしなさい」といえる理由をつくったのです。成績がいい地域は限られています。よって、大多数の成績が悪いというレッテルを貼られた地域の先生に対して、橋本さんは優位に立てるのです。しかも、頭がいい代表の弁護士さんですし。
この手法によって、「教育界も俺のいうことを聞け!!」と牛耳れると踏んだのです。
大阪府の教育水準の底上げより、短期的に平伏す人間をつくりたかったのです。
けっして、いい手法ではありませんね。子供たちが「ひとつの目標」に向かって研鑽を重ねる学校では、成績発表はある程度有効です。もちろん落ちこぼれは出てきます。その中から成績を上げることができる子もいるでしょうが、残念ながら稀です。目標に達することができないような生徒は、早々と、別の道に進まなければいけないという、ある意味社会的指導も同時に行われることになります。しかし、長い目で見ればその子の人生においてきっとその方がいいように思われます。
ただし、大阪府という大きなパイでみてみると、「成績」なんか、人を評価する基準の中のほんの一部にしか過ぎません。そこに、全神経を集中させるような方法には悪意を感じてしまいます。
成績なんてどうでもええやないか~。という人たちも尊重しないといけないのです。そして、子供の成績のことでののしられ、子供からもその親からも「無能」のレッテルを貼られる先生を一人でも少なくしてあげて、「教師」という職種にプライドを持ってあたる人間を一人でも多く作り出す方が、長期的に見て素晴らしい政治誘導と思いませんか??
橋本弁護士が県知事になって、まず着手した教育面でのお仕事は、確か小中学校で各地区による共通テストの成績を発表するというものでした。成績を細やかに発表し、成績が悪い地域には、反省を促し、尻を叩いてでも成績向上をするよう仕向けるという狙いがあったと思われます。
しかし、一見効率的な手法のようにそれは、本当に機能するか?考えてみましょう。
いっせいに成績が公表され、モチベーションを賦活化され「よし!!がんばろう!!」と思える階層はどの成績をとった生徒たちでしょう?恐らく、もう少し頑張れば、「一番になれる」かもしれない、極々限られた集団に限定されるような気がします。それ以外、つまり、「成績が一番であった学校の生徒」と「中間より下の成績の大多数を占める生徒」は、モチベーションに変化を来さないはずです。前者は嬉しくなって頑張ろうと思うかもしれませんが、後者は成績を提示されることにより、虚脱感を覚え、劣等感を刷り込まれ、地域や教師に対する憎悪すら感じてしまうかもしれません。そう感じる人数のほうが、圧倒的に多いと思われます。この陰性の感情起こさせることが、大阪府全体の子供たち、教師たちのためになるのでしょうか?
つまり、「子供たちが学ぶ意志をもつような環境をつくること」が行政の教育に対して精一杯できることなら、全ての成績を公開することは、逆効果ではないのでしょうか?
では、いったい、橋本さんは何を狙ったのでしょう?きっと、力関係の認識を狙ったのです。
「ほら、僕が言った通り、~~~地区の教育はなってないでしょ。その地区の先生たちは、大いに反省し、子供たちの成績向上のために努力をしなさい」といえる理由をつくったのです。成績がいい地域は限られています。よって、大多数の成績が悪いというレッテルを貼られた地域の先生に対して、橋本さんは優位に立てるのです。しかも、頭がいい代表の弁護士さんですし。
この手法によって、「教育界も俺のいうことを聞け!!」と牛耳れると踏んだのです。
大阪府の教育水準の底上げより、短期的に平伏す人間をつくりたかったのです。
けっして、いい手法ではありませんね。子供たちが「ひとつの目標」に向かって研鑽を重ねる学校では、成績発表はある程度有効です。もちろん落ちこぼれは出てきます。その中から成績を上げることができる子もいるでしょうが、残念ながら稀です。目標に達することができないような生徒は、早々と、別の道に進まなければいけないという、ある意味社会的指導も同時に行われることになります。しかし、長い目で見ればその子の人生においてきっとその方がいいように思われます。
ただし、大阪府という大きなパイでみてみると、「成績」なんか、人を評価する基準の中のほんの一部にしか過ぎません。そこに、全神経を集中させるような方法には悪意を感じてしまいます。
成績なんてどうでもええやないか~。という人たちも尊重しないといけないのです。そして、子供の成績のことでののしられ、子供からもその親からも「無能」のレッテルを貼られる先生を一人でも少なくしてあげて、「教師」という職種にプライドを持ってあたる人間を一人でも多く作り出す方が、長期的に見て素晴らしい政治誘導と思いませんか??
現行臓器移植制度の問題点とその改善策 5、6
現行臓器移植制度の問題点とその改善策 5、6
5、テクノロジーの進歩
そもそも、テクノロジーが進歩したため移植医療が発展してきました。免疫抑制剤の進歩、手術技術の進歩、麻酔の安定など医療技術革新による安全度の向上、人工呼吸器が開発され普及したため、脳死という新しい概念が生じました。現在は、人から人へ臓器が移植されていますが、将来的にはサルやその他哺乳類からの移植も可能になり一般的医療となるかもしれません。そうなると、今まで考えてきた移植問題は消失するでしょう。人から人へ移植するので問題が大きいのです。さらに、ES細胞やiPS細胞から人工臓器が作られるのは時間の問題です。そうなると、実質医療品である「物」を「人」へ移植することになるので、動物愛護の観点も消失し、さらに移植が身近になるでしょう。そのテクノロジーの進歩まで考えると、今の制度はあくまで過渡期の橋渡しです。長い目で見れば、そのうち人工臓器は買えるようになるのだから、それまでは「売買」するなら人としての「品」を損なわないようにすべきと思います。現行制度で「無償化」というのは「品」がよく、複雑なことを考えなくていい制度です。しかし、ドナーの数は全く足りていない。私はそれを増やすという観点に立ち、臓器を有償化してもいいのでは?と述べてきました。ただし、直接的取引で「お金お金」とするのはあまりに「品」がないので、上述した「品のある間接有償化」がうまく制度化されればと期待します。
6、結論
私は、腎移植に携わった経験を持ち、今も透析病院に働いているという自らの経験に基づいた視点から、そして医療の発展を願う医師の立場より、現在の臓器移植制度では解決出来そうもない我が国のドナー不足を改善する制度を考えました。「臓器提供」のドナーの数が増えないのには日本人独特の考え方があるように思われました。そのことも勘案し、提供承諾の数を増やす努力がもう少しなされるべきと思いました。次いで、現在では無償の提供に代え、「品のある間接有償化」の制度が考慮されるべきと思いました。加えて、知り合いにも提供出来る制度があってもいいと考えました。
この紙面だけでは、どのような制度が適切であるかどうかは、あまりに大きな問題ですのでここでは論じきれませんが、貴重な臓器を有り難く頂いて、健康に過ごせる人が増える方がいいと信じています。
完
5、テクノロジーの進歩
そもそも、テクノロジーが進歩したため移植医療が発展してきました。免疫抑制剤の進歩、手術技術の進歩、麻酔の安定など医療技術革新による安全度の向上、人工呼吸器が開発され普及したため、脳死という新しい概念が生じました。現在は、人から人へ臓器が移植されていますが、将来的にはサルやその他哺乳類からの移植も可能になり一般的医療となるかもしれません。そうなると、今まで考えてきた移植問題は消失するでしょう。人から人へ移植するので問題が大きいのです。さらに、ES細胞やiPS細胞から人工臓器が作られるのは時間の問題です。そうなると、実質医療品である「物」を「人」へ移植することになるので、動物愛護の観点も消失し、さらに移植が身近になるでしょう。そのテクノロジーの進歩まで考えると、今の制度はあくまで過渡期の橋渡しです。長い目で見れば、そのうち人工臓器は買えるようになるのだから、それまでは「売買」するなら人としての「品」を損なわないようにすべきと思います。現行制度で「無償化」というのは「品」がよく、複雑なことを考えなくていい制度です。しかし、ドナーの数は全く足りていない。私はそれを増やすという観点に立ち、臓器を有償化してもいいのでは?と述べてきました。ただし、直接的取引で「お金お金」とするのはあまりに「品」がないので、上述した「品のある間接有償化」がうまく制度化されればと期待します。
6、結論
私は、腎移植に携わった経験を持ち、今も透析病院に働いているという自らの経験に基づいた視点から、そして医療の発展を願う医師の立場より、現在の臓器移植制度では解決出来そうもない我が国のドナー不足を改善する制度を考えました。「臓器提供」のドナーの数が増えないのには日本人独特の考え方があるように思われました。そのことも勘案し、提供承諾の数を増やす努力がもう少しなされるべきと思いました。次いで、現在では無償の提供に代え、「品のある間接有償化」の制度が考慮されるべきと思いました。加えて、知り合いにも提供出来る制度があってもいいと考えました。
この紙面だけでは、どのような制度が適切であるかどうかは、あまりに大きな問題ですのでここでは論じきれませんが、貴重な臓器を有り難く頂いて、健康に過ごせる人が増える方がいいと信じています。
完
現行臓器移植制度の問題点とその改善策 4
現行臓器移植制度の問題点とその改善策 4
4、宗教と文化
◯宗教
なぜ、日本人はドナー供給が少ないのか?を考えた場合やはり宗教の問題は避けて通れないと思います。キリスト教の影響を強く受けている国は提供者も多く、移植医療が進んでいます。イエスキリストは「無償の愛を注ぐ」、その真似をすることが天国への道と信じられていると思われます。また、心身二元論、つまり、心と体は別物であるというギリシア哲学も強く影響しています。死んだ後の魂は天国に行くため、死体には魂が存在しないという考え方です。本人が死んだ後は、臓器に魂は残っていないのです。これは移植のドナーとレシピエント両者の心理的ストレスを軽くするでしょう。
一方、日本では八百万の神が存在します。つまり、臓器ひとつにも神が宿っているため、提供を考える際に大きな壁が立ちふさがることとなっていると考えられます。我が国で移植が進まないのは「日本人は助け合いの精神が足りない」からと言われていることもあるそうです。確かに一理あるかもしれませんが、宗教や文化のバックボーンが違うので、「助け合いが足りない」だけで一刀両断出来ないと思います。
◯おもてなしの文化
少なくとも「おもてなし」では世界最高レベルの日本人であることは間違いないと思います。他人の立場にたって、どうしてもらったらうれしいかな?と想像し、奥ゆかしく良質のサービスを提供する。それが「おもてなし」であるなら、臓器提供の心も「おもてなし」です。ではなぜ日本人は「臓器をおもてなし」することが出来ないのでしょうか?それは恐らく、「顔」の問題がここに関係してきます。私たち日本人は「顔」が見える人には「おもてなし」の精神を発揮しやすく、「顔」が見えない状態では、その人の存在すら見えないことにするという特徴があるように思います。つまり、生体移植の場合では、知らない人に自分の命の危険をさらしながら、臓器を提供するなんて、論外であるという気持ちを持つ人の方が多いということです。あるいは、脳死となった家族に対し、まだ死をも受け入れられない状態で、機能がある(生きている)それぞれの臓器を、「顔」も知らない他人に渡すという二重三重の心理的壁は私たちにとってあまりにも高いものです。脳死で臓器提供を考えなければいけない場合、おそらく多くのケースで急いで判断を迫られるでしょう。答えが出せないときは、出せません。つまり、移植のドナーとして使える間に臓器を取り出せないことになります。ドナーの年齢制限が撤廃されても、日本のドナーの数が増えないのはこのような理由もあるのではないでしょうか?
加えて、もし自分の子供の臓器を提供するなら、あわよくば、「顔を直接知っている、あの苦しんでいる子供にうちの子の臓器を提供したい」というのも本音です。そこが、日本人とキリスト文化圏の人の考え方の違いで、その影響でドナー提供者が日本ではなかなか出ないと思うのです。この心理的問題を解決するのはかなり難しいと思いますが、知り合いにも提供可能となるような制度を作れば、多少は解決すると思います。ただし、ここでも強制的に移植のドナーにさせられるといった犯罪行為を防ぐような決まりが必要となるでしょう。
続く。
4、宗教と文化
◯宗教
なぜ、日本人はドナー供給が少ないのか?を考えた場合やはり宗教の問題は避けて通れないと思います。キリスト教の影響を強く受けている国は提供者も多く、移植医療が進んでいます。イエスキリストは「無償の愛を注ぐ」、その真似をすることが天国への道と信じられていると思われます。また、心身二元論、つまり、心と体は別物であるというギリシア哲学も強く影響しています。死んだ後の魂は天国に行くため、死体には魂が存在しないという考え方です。本人が死んだ後は、臓器に魂は残っていないのです。これは移植のドナーとレシピエント両者の心理的ストレスを軽くするでしょう。
一方、日本では八百万の神が存在します。つまり、臓器ひとつにも神が宿っているため、提供を考える際に大きな壁が立ちふさがることとなっていると考えられます。我が国で移植が進まないのは「日本人は助け合いの精神が足りない」からと言われていることもあるそうです。確かに一理あるかもしれませんが、宗教や文化のバックボーンが違うので、「助け合いが足りない」だけで一刀両断出来ないと思います。
◯おもてなしの文化
少なくとも「おもてなし」では世界最高レベルの日本人であることは間違いないと思います。他人の立場にたって、どうしてもらったらうれしいかな?と想像し、奥ゆかしく良質のサービスを提供する。それが「おもてなし」であるなら、臓器提供の心も「おもてなし」です。ではなぜ日本人は「臓器をおもてなし」することが出来ないのでしょうか?それは恐らく、「顔」の問題がここに関係してきます。私たち日本人は「顔」が見える人には「おもてなし」の精神を発揮しやすく、「顔」が見えない状態では、その人の存在すら見えないことにするという特徴があるように思います。つまり、生体移植の場合では、知らない人に自分の命の危険をさらしながら、臓器を提供するなんて、論外であるという気持ちを持つ人の方が多いということです。あるいは、脳死となった家族に対し、まだ死をも受け入れられない状態で、機能がある(生きている)それぞれの臓器を、「顔」も知らない他人に渡すという二重三重の心理的壁は私たちにとってあまりにも高いものです。脳死で臓器提供を考えなければいけない場合、おそらく多くのケースで急いで判断を迫られるでしょう。答えが出せないときは、出せません。つまり、移植のドナーとして使える間に臓器を取り出せないことになります。ドナーの年齢制限が撤廃されても、日本のドナーの数が増えないのはこのような理由もあるのではないでしょうか?
加えて、もし自分の子供の臓器を提供するなら、あわよくば、「顔を直接知っている、あの苦しんでいる子供にうちの子の臓器を提供したい」というのも本音です。そこが、日本人とキリスト文化圏の人の考え方の違いで、その影響でドナー提供者が日本ではなかなか出ないと思うのです。この心理的問題を解決するのはかなり難しいと思いますが、知り合いにも提供可能となるような制度を作れば、多少は解決すると思います。ただし、ここでも強制的に移植のドナーにさせられるといった犯罪行為を防ぐような決まりが必要となるでしょう。
続く。
現行臓器移植制度の問題点とその改善策 2、3
現行臓器移植制度の問題点とその改善策 2、3
2、臓器は誰のものか?
臓器は誰のものでしょう?生物学的に考えると、臓器は個人の物です。しかし、社会学的に考えれば、臓器はときに人間共有の財産となりえます。輸血もアル意味移植です。もし、輸血が禁止されれば、数多くの方が亡くなることでしょう。子供の臓器は親の物でしょうか?そもそも、子供は人類共通の宝であるという考えもあります。そもそも正解なんてありません。ですからここでは、ドナーの数を増やすことを目的とし、臓器は社会的共通資本と考えることにします。つまり、臓器は人類みんなの物という観点で話しを進めることにします。みんなの物だから不必要な状態になった人から、それがあれば生きることが出来る人へ提供する、その機会を増やす制度を考えるというわけです。
では、提供できるとしたならば、それには値段がつくものでしょうか?次に考えてみます。
3、臓器は有償か?無償で提供されるべきか?
○ 有償でいいか?
基本的に臓器売買は世界中で禁止されています。しかし、私は有償でもいいと考えます。以下に、有償化した際のメリットとデメリットを列記します。
メリット:臓器提供数が増える。感情論になりにくい。提供側の経済的メリットも生じるでしょう。
他国の例としてフィリピンでは犯罪者が腎臓を提供すれば減刑となっていたそうです。フィリピンは今でも臓器売買を禁止する法律はなく、現実売買されています。値段は約40万円だそうです。これは貧民街の人の約2年分の年収になるそうです。中国では死刑囚から臓器を取り出していました。遺族に報償はありませんでした。
外国に臓器を買いに行く日本人が減るのもメリットとして挙げられます。プロレスのジャンボ鶴田はフィリピンで腎臓を移植し、術後感染によって命を落としました。
また、きちんと法整備がなされれば、裏社会で臓器売買業が暗躍することも防ぐことができると考えられます。
デメリット:臓器ビジネスが発生する。あるいは、犯罪の温床になる可能性があるといった指摘がありますが、法的に厳重な縛りをつけた方が犯罪はおこりにくくなります。逆に、法に守られない部分で臓器売買ビジネスが暗躍すると思われるし、事実、そういう事件も生じています。
臓器を提供する人はその段階で既に死んでいるので、提供者自身の利益にはならず、家族の利益にしかならない。それでいいのでしょうか?それを含めての臓器提供承諾の意思表示とするようにしておけば、許されるのかもしれません。
貧しい人が臓器を売ることが多くなるであろうと予想されますが、それは差別に繋がらないか?この問題は次に論じます。
○ 有償でいい。それなら適切な金額は??
適切な金額設定にはいくつかの計算方法があります。例えば腎臓を考えると個人用人工透析の機械は1台400万円ほど、維持費や雑費を考えるとそれ以上が腎臓1個の値段です。健康保険では血液維持透析患者のひと月の治療費は約30万円です。20年間透析治療を受けたならば、7200万円となります。心臓移植では1億円以上の募金が集められ、やっと、海外に手術を受けに行っていました。その金額がそのまま提供者への報酬になるかといえば違いますが、価格を考える上で参考とはなります。
○ 有償ならば、その制度は?
私は臓器を提供するからといって、直接、報酬を受け取るというよりも、間接的な方法がいいと考えました。例えば、生体移植の場合、提供者にはその後の健康保険を支払う義務がなくなる、ないし、その後一生医療費は無料になるといったサービスが検討されていいと思います。死体移植では、ドナーの相続が発生する場合その減税や、ドナーの遺族がその後移植医療のレシピエントになった場合に優先権を得られるといったメリットがあればいいでしょう。そういう制度を確立すれば、前項で問題になった貧しい人たちばかりがドナーになる可能性が高いといった人権問題もある程度薄くなると考えます。
生体腎移植においてもドナーに何らかの経済的メリットがもたらされれば、献腎の数が増すと推定されます。この腎臓移植に限っていえば、移植が上手くいけば多額の医療費が削減出来ます。我が国の医療経済は逼迫しており、今後ますます厳しくなることが予想されます。そういう理由からも移植医療の機会が増えるように進めるべきと考えます。
続く。
2、臓器は誰のものか?
臓器は誰のものでしょう?生物学的に考えると、臓器は個人の物です。しかし、社会学的に考えれば、臓器はときに人間共有の財産となりえます。輸血もアル意味移植です。もし、輸血が禁止されれば、数多くの方が亡くなることでしょう。子供の臓器は親の物でしょうか?そもそも、子供は人類共通の宝であるという考えもあります。そもそも正解なんてありません。ですからここでは、ドナーの数を増やすことを目的とし、臓器は社会的共通資本と考えることにします。つまり、臓器は人類みんなの物という観点で話しを進めることにします。みんなの物だから不必要な状態になった人から、それがあれば生きることが出来る人へ提供する、その機会を増やす制度を考えるというわけです。
では、提供できるとしたならば、それには値段がつくものでしょうか?次に考えてみます。
3、臓器は有償か?無償で提供されるべきか?
○ 有償でいいか?
基本的に臓器売買は世界中で禁止されています。しかし、私は有償でもいいと考えます。以下に、有償化した際のメリットとデメリットを列記します。
メリット:臓器提供数が増える。感情論になりにくい。提供側の経済的メリットも生じるでしょう。
他国の例としてフィリピンでは犯罪者が腎臓を提供すれば減刑となっていたそうです。フィリピンは今でも臓器売買を禁止する法律はなく、現実売買されています。値段は約40万円だそうです。これは貧民街の人の約2年分の年収になるそうです。中国では死刑囚から臓器を取り出していました。遺族に報償はありませんでした。
外国に臓器を買いに行く日本人が減るのもメリットとして挙げられます。プロレスのジャンボ鶴田はフィリピンで腎臓を移植し、術後感染によって命を落としました。
また、きちんと法整備がなされれば、裏社会で臓器売買業が暗躍することも防ぐことができると考えられます。
デメリット:臓器ビジネスが発生する。あるいは、犯罪の温床になる可能性があるといった指摘がありますが、法的に厳重な縛りをつけた方が犯罪はおこりにくくなります。逆に、法に守られない部分で臓器売買ビジネスが暗躍すると思われるし、事実、そういう事件も生じています。
臓器を提供する人はその段階で既に死んでいるので、提供者自身の利益にはならず、家族の利益にしかならない。それでいいのでしょうか?それを含めての臓器提供承諾の意思表示とするようにしておけば、許されるのかもしれません。
貧しい人が臓器を売ることが多くなるであろうと予想されますが、それは差別に繋がらないか?この問題は次に論じます。
○ 有償でいい。それなら適切な金額は??
適切な金額設定にはいくつかの計算方法があります。例えば腎臓を考えると個人用人工透析の機械は1台400万円ほど、維持費や雑費を考えるとそれ以上が腎臓1個の値段です。健康保険では血液維持透析患者のひと月の治療費は約30万円です。20年間透析治療を受けたならば、7200万円となります。心臓移植では1億円以上の募金が集められ、やっと、海外に手術を受けに行っていました。その金額がそのまま提供者への報酬になるかといえば違いますが、価格を考える上で参考とはなります。
○ 有償ならば、その制度は?
私は臓器を提供するからといって、直接、報酬を受け取るというよりも、間接的な方法がいいと考えました。例えば、生体移植の場合、提供者にはその後の健康保険を支払う義務がなくなる、ないし、その後一生医療費は無料になるといったサービスが検討されていいと思います。死体移植では、ドナーの相続が発生する場合その減税や、ドナーの遺族がその後移植医療のレシピエントになった場合に優先権を得られるといったメリットがあればいいでしょう。そういう制度を確立すれば、前項で問題になった貧しい人たちばかりがドナーになる可能性が高いといった人権問題もある程度薄くなると考えます。
生体腎移植においてもドナーに何らかの経済的メリットがもたらされれば、献腎の数が増すと推定されます。この腎臓移植に限っていえば、移植が上手くいけば多額の医療費が削減出来ます。我が国の医療経済は逼迫しており、今後ますます厳しくなることが予想されます。そういう理由からも移植医療の機会が増えるように進めるべきと考えます。
続く。
芸術の秋「ゴッホ」:切り落とした耳の主治医は泌尿器科医
芸術の秋「ゴッホ」:切り落とした耳の主治医は泌尿器科医 納富 貴
ゴッホは日本人には親しみやすい画家ではないかと思います。その理由のひとつに、ゴッホが日本の芸術をこよなく愛し、浮世絵の技法を作品に取り入れてさえいたことも挙げられるのではないでしょうか。私も、大好きな画家の一人です。
1888年12月23日、南フランス・アルルにて、ゴッホは同居していたゴーギャンとの諍いの後、自らの耳を切り落とし、お気に入りの娼婦のもとに届けました。翌朝、手当てをしたのが、アルル市立病院オテル・デューの泌尿器科医フェリックス・リー医師でした。正確には、泌尿器科医になるべく、「尿道の消毒」というタイトルの博士論文を、まさにその時に執筆中であった若手インターン先生だったのです。レー医師はゴッホを「ある種の癲癇」と診断し、精神病院に移そうとも考えましたが、経過が良好であったため、翌年1月7日に退院の許可を与えます。この温情あふれる判断にいたく感激したゴッホはレー医師の肖像画を書き上げ進呈しました。ところが、当のレー医師はこの絵に興味がなかったようです。ご両親もよほどお気にめさなかったらしく、かわいそうなこの絵はレー家の鳥小屋の穴をふさぐための板として使われることになりました。今では時価数億円はしようかという鳥小屋の完成です。
肖像が描かれた一年半後、ゴッホは自らの命を絶ちました。享年37歳でした。
1910年、シャルル・カミオンという若い画家が、ゴッホの絵を探し求めて、レー博士の元を訪ねました。ゴッホの絵の最初のコレクターとされるアンブロアーズ・ヴォラールは、カミオンの情報をもとに、かろうじてレー博士の記憶の片隅にあったトリの糞にまみれた肖像画を150フランで買い取りました。この幸運により、この絵は日の目を見ることができるようになったのです。
ゴッホの手記から、レー博士の印象についての記述を紹介します。「母親の作るプロヴァンス料理のせいか少々ぽっちゃりしていて、いかにもかわいがられて育ったという感じがする。スマートな山羊髭ときっちり分けてとかした髪のこの医師は、生まれつきものごとを前向きに考えられる人間であり、呑気で楽天的だった。」
呑気で楽天的すぎたため、絵の価値がわからなかったのでしょう。いや、当時ここまで値が上がる画家となろうとは誰が想像できたでしょうか?しかし、子孫から言わせれば、なんとも、もったいない話であります。
ここに、レー医師と、レー医師によって巻かれたかもしれない包帯姿のゴッホの肖像画を掲載します。レー医師の絵は、現在、ロシア・プーシキン美術館に保管されています。
ゴッホは日本人には親しみやすい画家ではないかと思います。その理由のひとつに、ゴッホが日本の芸術をこよなく愛し、浮世絵の技法を作品に取り入れてさえいたことも挙げられるのではないでしょうか。私も、大好きな画家の一人です。
1888年12月23日、南フランス・アルルにて、ゴッホは同居していたゴーギャンとの諍いの後、自らの耳を切り落とし、お気に入りの娼婦のもとに届けました。翌朝、手当てをしたのが、アルル市立病院オテル・デューの泌尿器科医フェリックス・リー医師でした。正確には、泌尿器科医になるべく、「尿道の消毒」というタイトルの博士論文を、まさにその時に執筆中であった若手インターン先生だったのです。レー医師はゴッホを「ある種の癲癇」と診断し、精神病院に移そうとも考えましたが、経過が良好であったため、翌年1月7日に退院の許可を与えます。この温情あふれる判断にいたく感激したゴッホはレー医師の肖像画を書き上げ進呈しました。ところが、当のレー医師はこの絵に興味がなかったようです。ご両親もよほどお気にめさなかったらしく、かわいそうなこの絵はレー家の鳥小屋の穴をふさぐための板として使われることになりました。今では時価数億円はしようかという鳥小屋の完成です。
肖像が描かれた一年半後、ゴッホは自らの命を絶ちました。享年37歳でした。
1910年、シャルル・カミオンという若い画家が、ゴッホの絵を探し求めて、レー博士の元を訪ねました。ゴッホの絵の最初のコレクターとされるアンブロアーズ・ヴォラールは、カミオンの情報をもとに、かろうじてレー博士の記憶の片隅にあったトリの糞にまみれた肖像画を150フランで買い取りました。この幸運により、この絵は日の目を見ることができるようになったのです。
ゴッホの手記から、レー博士の印象についての記述を紹介します。「母親の作るプロヴァンス料理のせいか少々ぽっちゃりしていて、いかにもかわいがられて育ったという感じがする。スマートな山羊髭ときっちり分けてとかした髪のこの医師は、生まれつきものごとを前向きに考えられる人間であり、呑気で楽天的だった。」
呑気で楽天的すぎたため、絵の価値がわからなかったのでしょう。いや、当時ここまで値が上がる画家となろうとは誰が想像できたでしょうか?しかし、子孫から言わせれば、なんとも、もったいない話であります。
ここに、レー医師と、レー医師によって巻かれたかもしれない包帯姿のゴッホの肖像画を掲載します。レー医師の絵は、現在、ロシア・プーシキン美術館に保管されています。
現行臓器移植制度の問題点とその改善策
現行臓器移植制度の問題点とその改善策
我々は透析医療を提供させていただいています。我が国の臓器移植問題の中で最も深刻なものは、提供者不足と考えられます。腎移植が進めば、増加の一途をたどる透析医療を受けなければいけない患者の数も減るでしょう。心臓や肺に重大な疾患を抱え、移植により救える可能性がある命も、肝心の健康な臓器が供給されないのならば、ついえることになります。よって、ここでは現状の制度の問題点を挙げ、ドナーの数が増えることを第一の目的として、改善策を検討したいと思います。
1、意思表示について
臓器提供の同意がなく医療側の判断で移植のドナーにできるのならば、現在より飛躍的に臓器提供の数は増えるのでしょうが、私は臓器提供に関し、現行法と同じく本人の同意は必ず必要と考えます。本人の意思がなくとも、臓器移植ができる制度は基本的人権を毀損すると思われるからです。
現在の制度では臓器提供の意思表示の場が少ないことも問題だと思われます。例えば、運転免許発行時に臓器提供の意思表示を明確にするという方式の導入は、縦割り行政の問題を突破したいい事例です。しかし、免許を取らない人、免許更新を諦めた人は意思表示されません。その他に、住民記帳台帳調査の際に家族分の意思表示カードを置いて行く、成人式の案内に臓器移植の意思表示カードを同封するといったやり方はいいと思いますが、カードをもらっても記載しなければ意思表示がなされないことになります。
意思を示す年齢ですが、旧移植法では脳死で臓器を提供できるのは15歳以上でした。それが2010年の改正で撤廃されました。しかし、この5年で15歳以下で臓器提供がなされたのはわずか7例しかありません。小さい子供の臓器を提供するにあたり何か問題がありそうです。そこでまず、子供の臓器提供に関する意思決定について考えてみます。子供が未成年の場合は親が子供の臓器提出を決定しているのが現状でしょうが、はたして、未成年期に脳死状態となった場合、親が勝手に決めていいのか?という問題です。基本的に私は、子供が12歳まで(小学校6年生)は親が決めていいと思います。意思表示を小さい子供に決めさせるのは無理があるし、あまりにも過酷です。12歳以上になれば、例えば、小学校卒業時に倫理の時間で移植を勉強して、意思表示を各児童に各々検討してもらうという方法もいいかもしれません。あるいは、中学校入学時や卒業時に移植提供の意思表示ができるよう制度化すれば、ほとんど全ての日本人が意思表示をしていることになるでしょう。
意思表示については他にも問題があります。列記します。
○ 遺族の同意は?遺族の範囲は?2親等まで??
○ 本人が同意していたのに、家族が反対した場合は?
○ 本人の意思表示はなかったが、家族が移植したがった場合は可能か?
○ 本人の意思表示はなかったが、家族が移植拒絶。
○ 複数の異なる意思表示カードを持っていた場合。
本人が移植承諾を拒否している場合は、現状では移植不可能だと思いますが、仮に本人の意思に左右されない制度が作られた場合、本人が提供を拒絶していても移植可能な状態になればその方の臓器は移植に回されるということになります。やはり、それは制度上問題があるといっていいでしょう。
これらの問題はつきつめると、死とは?意識とは?児童や学童と大人の里は?そもそも家族ってなんでしょう?という話しになり、問題が大きくなるのでここでは論じないことにします。
続く。
我々は透析医療を提供させていただいています。我が国の臓器移植問題の中で最も深刻なものは、提供者不足と考えられます。腎移植が進めば、増加の一途をたどる透析医療を受けなければいけない患者の数も減るでしょう。心臓や肺に重大な疾患を抱え、移植により救える可能性がある命も、肝心の健康な臓器が供給されないのならば、ついえることになります。よって、ここでは現状の制度の問題点を挙げ、ドナーの数が増えることを第一の目的として、改善策を検討したいと思います。
1、意思表示について
臓器提供の同意がなく医療側の判断で移植のドナーにできるのならば、現在より飛躍的に臓器提供の数は増えるのでしょうが、私は臓器提供に関し、現行法と同じく本人の同意は必ず必要と考えます。本人の意思がなくとも、臓器移植ができる制度は基本的人権を毀損すると思われるからです。
現在の制度では臓器提供の意思表示の場が少ないことも問題だと思われます。例えば、運転免許発行時に臓器提供の意思表示を明確にするという方式の導入は、縦割り行政の問題を突破したいい事例です。しかし、免許を取らない人、免許更新を諦めた人は意思表示されません。その他に、住民記帳台帳調査の際に家族分の意思表示カードを置いて行く、成人式の案内に臓器移植の意思表示カードを同封するといったやり方はいいと思いますが、カードをもらっても記載しなければ意思表示がなされないことになります。
意思を示す年齢ですが、旧移植法では脳死で臓器を提供できるのは15歳以上でした。それが2010年の改正で撤廃されました。しかし、この5年で15歳以下で臓器提供がなされたのはわずか7例しかありません。小さい子供の臓器を提供するにあたり何か問題がありそうです。そこでまず、子供の臓器提供に関する意思決定について考えてみます。子供が未成年の場合は親が子供の臓器提出を決定しているのが現状でしょうが、はたして、未成年期に脳死状態となった場合、親が勝手に決めていいのか?という問題です。基本的に私は、子供が12歳まで(小学校6年生)は親が決めていいと思います。意思表示を小さい子供に決めさせるのは無理があるし、あまりにも過酷です。12歳以上になれば、例えば、小学校卒業時に倫理の時間で移植を勉強して、意思表示を各児童に各々検討してもらうという方法もいいかもしれません。あるいは、中学校入学時や卒業時に移植提供の意思表示ができるよう制度化すれば、ほとんど全ての日本人が意思表示をしていることになるでしょう。
意思表示については他にも問題があります。列記します。
○ 遺族の同意は?遺族の範囲は?2親等まで??
○ 本人が同意していたのに、家族が反対した場合は?
○ 本人の意思表示はなかったが、家族が移植したがった場合は可能か?
○ 本人の意思表示はなかったが、家族が移植拒絶。
○ 複数の異なる意思表示カードを持っていた場合。
本人が移植承諾を拒否している場合は、現状では移植不可能だと思いますが、仮に本人の意思に左右されない制度が作られた場合、本人が提供を拒絶していても移植可能な状態になればその方の臓器は移植に回されるということになります。やはり、それは制度上問題があるといっていいでしょう。
これらの問題はつきつめると、死とは?意識とは?児童や学童と大人の里は?そもそも家族ってなんでしょう?という話しになり、問題が大きくなるのでここでは論じないことにします。
続く。