医療バッシングとメディア
2021年08月17日
ジェントルマン at 11:11 | 誠晴會だより
―内田樹先生のお考え紹介①ー
納富貴嗣
昨今のコロナ騒動で、医療従事者は「居心地が悪いほど」持ち上げられているような気がします。
本来業務として「救急医療」や「救命医療」、あるいは「呼吸器感染症病棟」にご勤務されている医療スタッフは、称賛と労いを受けて当然でしょう。
しかし、我々のような末端のそのような分野とはかけ離れた職種の医療人は、オリンピック前の日本代表対スペイン代表の練習試合前に「医療従事者に対し感謝の拍手を!!」とかされてしまうと、逆に後ろめたいになります。(ですよね、、、)
「すみません、我々はコロナから必死で逃げてるだけですので、、、、」と思ってしまいます。(よね、、、)
思い出せば、ほんの10年ほど前、医療従事者は「不当なバッシング」に耐え忍んでいたものでした。
実はこのような「大衆操作」はマスコミによってなされます。
以下、内田樹先生が約10年前に書いた「院内暴力が流行ってしまった原因論」を紹介します。今の過剰な賞賛は、「バッシング再発」の引き金を引くかもしれないと自覚し、自己防衛の意味も含めて、ここで再論させてください。
院内暴力とメディア 2010−08−04 内田樹の研究室より抜粋
数年前にある大学の看護学部で講演をしたことがある。
そのとき、ナースの方たちと話す機会があった。
ナースステーションに「『患者さま』と呼びましょう」という貼り紙があったので、あれは何ですかと訊ねた。
看護学部長が苦笑いして、「厚労省からのお達しです」と教えてくれた。
そして、「患者さま」という呼称を採用してから、院内の様子がずいぶん変わりましたと言った。
何が変わったのですかと訊ねると、「医師や看護師に対して暴言を吐く患者が増えた、院内規則を破って飲酒喫煙無断外出する患者が増えた、入院費を払わないで退院する患者が増えた」と三点指折り数えて教えてくれた。
「患者さま」という呼称は「お客さま」の転用である。
医療も(教育と同じく)商取引モデルに再編されねばならないと、そのころの統治者たちが考えたのである(覚えておいでだろう。「小泉竹中」のあのグローバリズムの時代の話である)。
患者は(消費者として)「最低の代価で、最高の医療サービスを要求する」ことを義務づけられる。
その「ニーズ」に応えることのできない医療機関は遠からず「マーケット」から退場する。その結果、最高の費用対効果で、最良の医療サービスを提供する医療機関だけが「淘汰」を生き延び、日本の医療水準はますます高まる。だから、患者もまた医療機関に対して、できるだけ少ない代価で、最高のサービスを要求「すべき」なのだ。
政治家たちはそう考えた。
マスメディアもその尻馬に乗った。
その頃、私は医療における「賢い患者になろうキャンペーン」とか「インフォームド・コンセント」論といった「政治的に正しい医療論」に対して、「こんなことを続けたら、日本の医療は崩壊する」と繰り返し警告していた。
医療とはかかわりのない素人の論であったが、医療メディアは私の主張を何度も取り上げてくれた。
だが、マスメディアから「医療に関する意見」を徴されたことは過去に一度もない。
それは私の意見がマスメディアの主張とまったくなじまないものだったからである。
さすがに医療崩壊の実情を知るにつれて、最近ではメディアの医療バッシングの筆勢は衰えたが、それでも自分たちがこの現場の荒廃に「責任がある」という言葉は口にしない。
たぶん、そう思ってもいないのだろう。
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次回に続きます
納富貴嗣
昨今のコロナ騒動で、医療従事者は「居心地が悪いほど」持ち上げられているような気がします。
本来業務として「救急医療」や「救命医療」、あるいは「呼吸器感染症病棟」にご勤務されている医療スタッフは、称賛と労いを受けて当然でしょう。
しかし、我々のような末端のそのような分野とはかけ離れた職種の医療人は、オリンピック前の日本代表対スペイン代表の練習試合前に「医療従事者に対し感謝の拍手を!!」とかされてしまうと、逆に後ろめたいになります。(ですよね、、、)
「すみません、我々はコロナから必死で逃げてるだけですので、、、、」と思ってしまいます。(よね、、、)
思い出せば、ほんの10年ほど前、医療従事者は「不当なバッシング」に耐え忍んでいたものでした。
実はこのような「大衆操作」はマスコミによってなされます。
以下、内田樹先生が約10年前に書いた「院内暴力が流行ってしまった原因論」を紹介します。今の過剰な賞賛は、「バッシング再発」の引き金を引くかもしれないと自覚し、自己防衛の意味も含めて、ここで再論させてください。
院内暴力とメディア 2010−08−04 内田樹の研究室より抜粋
数年前にある大学の看護学部で講演をしたことがある。
そのとき、ナースの方たちと話す機会があった。
ナースステーションに「『患者さま』と呼びましょう」という貼り紙があったので、あれは何ですかと訊ねた。
看護学部長が苦笑いして、「厚労省からのお達しです」と教えてくれた。
そして、「患者さま」という呼称を採用してから、院内の様子がずいぶん変わりましたと言った。
何が変わったのですかと訊ねると、「医師や看護師に対して暴言を吐く患者が増えた、院内規則を破って飲酒喫煙無断外出する患者が増えた、入院費を払わないで退院する患者が増えた」と三点指折り数えて教えてくれた。
「患者さま」という呼称は「お客さま」の転用である。
医療も(教育と同じく)商取引モデルに再編されねばならないと、そのころの統治者たちが考えたのである(覚えておいでだろう。「小泉竹中」のあのグローバリズムの時代の話である)。
患者は(消費者として)「最低の代価で、最高の医療サービスを要求する」ことを義務づけられる。
その「ニーズ」に応えることのできない医療機関は遠からず「マーケット」から退場する。その結果、最高の費用対効果で、最良の医療サービスを提供する医療機関だけが「淘汰」を生き延び、日本の医療水準はますます高まる。だから、患者もまた医療機関に対して、できるだけ少ない代価で、最高のサービスを要求「すべき」なのだ。
政治家たちはそう考えた。
マスメディアもその尻馬に乗った。
その頃、私は医療における「賢い患者になろうキャンペーン」とか「インフォームド・コンセント」論といった「政治的に正しい医療論」に対して、「こんなことを続けたら、日本の医療は崩壊する」と繰り返し警告していた。
医療とはかかわりのない素人の論であったが、医療メディアは私の主張を何度も取り上げてくれた。
だが、マスメディアから「医療に関する意見」を徴されたことは過去に一度もない。
それは私の意見がマスメディアの主張とまったくなじまないものだったからである。
さすがに医療崩壊の実情を知るにつれて、最近ではメディアの医療バッシングの筆勢は衰えたが、それでも自分たちがこの現場の荒廃に「責任がある」という言葉は口にしない。
たぶん、そう思ってもいないのだろう。
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次回に続きます