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泌尿器科の名前の由来

2018年03月27日

 ジェントルマン at 09:00  | 誠晴會だより
泌尿器科の名前の由来          院長

 「泌尿器科」という名称は、間違った知識に基づいて生まれた名前と考えられます。

 明治30年初頭(1900年頃)、ドイツ学会の影響の元、梅毒対策が急務であったために、皮膚科と共に泌尿器科学が日本にもたらされました。その頃は、尿は膵液や唾液や汗と同じように内分泌腺から分泌されると考えられていました。1666年イタリアの解剖学者マルピギーは尿細管とマルピギー小体(糸球体に該当)が繋がっている事を認識しましたが、尿は尿細管などから分泌されると考えました。Bowmanがかなり正確なボウマン嚢の解剖学的記載を発表したのが1842年ですが、尿は尿細管から分泌され、糸球体血管からは水分がでて尿を押し流すと考えました。ほぼ同時代1844年にLudwigは糸球体血管から限外濾過(ultrafiltration)された尿が尿細管で再吸収を受け終末尿になるという、現在の考えの原型を発表しています。しかし、その後も1874年には糸球体から尿が分泌されるというHeidenhaimの発表があり、日本では「泌尿」という漢字が当てられたのではないかと考えられます。
 1877年、膀胱鏡がNitzeによって開発され、urologyは皮膚科から別れ、独自性を獲得する歴史的契機になっていました。
 尿の生成過程に関する誤解と、梅毒という特殊な病態が、泌尿器科の名称に誤った、かつ、悪い印象を与えていると思います。

 言葉は大事です。名はそのものの本質を的確に表現するものがいいに決まっています。urologyが外科の一分野であると認識すれば、腎尿路系外科が最も適切なurologyの訳語ではないかと思います。その他、私たちは上皮小体や副腎と行ったホルモンを分泌する臓器も疾患の対象としていますし、尿路系も良性疾患から悪性疾患まで扱います。よって、上皮小体&副腎&男性内分泌外科、後腹膜臓器&男性生殖器官外科、尿路系悪性腫瘍科という名称も的確です。
 名称を的確にすることにより、「いいイメージ」づくりをして行こうと企んでおります!!ご協力のほど、よろしくお願いいたします。
  


泌尿器科医にはあまり関係ないセロトニンという物質

2018年03月20日

 ジェントルマン at 10:03  | 誠晴會だより
医会佐賀6月号:フリートークに掲載されました。ご笑納下さい。

泌尿器科医にはあまり関係ないセロトニンという物質

誠晴會納富病院  納富 貴

痛みと愛と攻撃と

 ヒトとして、いや大きく生命体に共通するとダーゥインも指摘する不可欠な感情である『愛』。『愛』は『痛み』を伴うものである。本来生物として共に栄華を極めるという目的を有しているはずの同種間において、異性の『愛』を得るために同性間で『攻撃』しあう行動は多くの種にて見られる。『攻撃』の結果として身体的『痛み』が生じることは『攻撃』側、被『攻撃』側にも避けられない。ただ、承知の上で自らが被る以上の損害を相手に与えることだけを目的に『攻撃』する。苦労の結果『愛』が享受されたとしても、その後も『愛』に『痛み』は付きまとうにもかかわらず‥。

究極の『愛』

 多くの生物で噛むことがスキンシップとなる。程度によるが『痛み』と紙一重の愛情表現である。少しふみこみカマキリの話はあまりにも極端な例であろうか?ヒトでも「好きで好きでたまらなく、食べてしまいたくなる」事がある。実際、佐川一政氏は恋人のパリジェンヌを食べた。この場合、カマキリと異なり雌雄関係が逆転しており、子孫繁栄のための栄養補給を目的とした行動でないことは明らかである。そこはかとない『愛』は痛みを超越する死を与えることを選択させざるを得なかったのか?実際彼は、最も愛する人の最も愛すべきパーツであったろう胸部が一番美味しかったとさえ供述している。この常軌を逸した行為に至る心理的推移の考察はさておき、程度の差こそあれ、恋人をおもいっきりつねりたくなる抑えきれない衝動は冷静に考えてみればみるほど不思議な感情である。

『愛』相反する

 『愛』があまりに深淵となり、逆の感情となることも日常茶飯事である。愛と憎しみも表裏一体なのである。問題解決の手段として精神的肉体的『攻撃』が安易に選択される。肉親兄弟での血みどろの諍い。離婚調停。振り向かない異性への執拗なストーキング。子供の反抗期もこの感情が一端を担っているかもしれない。好きな女の子を虐める男子などもかわいい代表であろう。メッタ刺しの殺人事件は、まず間違いなく愛情のもつれから生じる。殺す事はあくまで途中経過であり、『愛』の対極の心境に到達するまで刺す事が目的なのである。『愛』相反し憎悪極む。

感覚である『痛み』と言語として表現される『愛』との関係

 『愛』する表現には『痛み』に近い感覚が流用される。身を切るような思い。心が疼く。胸が痛い。張り裂けんばかりの気持ち。体がほてる、熱く煮えたぎる思い。身を焦がすまで思う。熱い視線は身を貫く。ハートに矢まで刺さるのである。『愛』を表すこの感情的な苦痛表現は、ほとんど全ての言語で認められるという。人種に関係ない共通する感覚なのである。つまり、少なくともヒトが体現する感情と感覚においては、言語的に『痛み』と『愛』は共有されていると断定できる。

『愛』の喪失

 『愛』を失えば、身も心もボロボロになり、人生はズタズタにされ、朝も起きられなくなり、物が喉を通らない。何もしたくなくなり、生きる意味さえなくなる。自己を抹消したくなる。まさに『鬱』の症状を呈する。カミーユ・クローデルは、ロダンを愛し、愛人として助手としてモデルとして、心も技も身も捧げた。結局、内縁の妻から『愛』を奪い取ることができず、離れる決意をした直後発症。四半世紀もの残る一生を施設で過ごすこととなった。ピカソの女性遍歴はあまりにも有名であるが、彼の死後少なくとも2人の周囲の女性が自殺している。『愛』の喪失により自らの命を断ったのである。『愛』の過剰が破綻を生じさせるのである。何が(何の欠落が)『愛』を飽和させたのであろうか?『愛』の消失により生きるために必要な何が奪われるのであろうか?

『痛み』と『鬱』の相関

 『痛い』時は不機嫌になる。成人女性なら程度の差こそあれ月経時には仕事も手につかない人も多い。月に一度、普段は美しく優しい女性が、眉間に皺を寄せニコリともしない日、傍に居合わせてしまった男性はなすすべがない。男性にはこの辛さは決してわからないが、歯が痛む時、仕事に集中できない状態を思い出していただければ比較的似たような状態か?あくまで想像である。不機嫌や集中できないことと『鬱』とは直結しないものの、精神的には類似状態である事は間違いない。

卵かニワトリ、苦痛と『鬱』

 さて、卵が先かニワトリが先か?精神的苦痛が鬱発症と関与することは経験的に知られており、逆に鬱病患者の最大80%が主として身体的症状を示すことは立証されている。頭痛、腰痛、肩こり、胃の痛み、下痢、便秘、発汗異常、息苦しさなど症状は多岐にわたる。約30年も前に疼痛とうつ病には神経化学的な関連が示されていた。低容量でも三環系抗うつ剤は慢性疼痛を軽減させることが実証されており、現在アメリカでは線維筋痛症候群に附随する疼痛に対して三環系抗うつ剤が第一選択薬とさえなっている。その他、慢性緊張性頭痛、慢性上部消化管痛、末期癌患者に対する麻薬鎮痛剤の補助薬としても有用とされる。いまも、徐痛効果の目的で同系統薬剤が各方面で研究されている。

感情と感覚と行動と精神疾患の共通キーワード

 言語的に『痛み』と『愛』は共有され、精神的肉体的に『痛み』は『攻撃』から生み出される。苦痛が『鬱』発症の転機となり、抗うつ薬により『鬱』も『痛み』も軽減する。まとめると、『攻撃』本能(抑制系も含む)は『愛』を根拠とした『痛み』を自他に与えること(与えないよう我慢すること)を目的とした行動(行動抑制)であるのだろうか?門外漢のたわごとであるが、そのシステムが破綻した場合、『鬱』状態が引き起こされるのではないだろうか?
『愛』と『痛み』と『攻撃』と、そして『鬱』についての結びつきはひとつのキーワードに収束される。
神経伝達物質『セロトニン』である。
 私が専攻する泌尿器科とは関係なさそうなこの物質も、慢性疼痛や前立腺のアポトーシスといった視点から注目されるようになってきた。進化は倹約的に行われている。臨床医として、まだまだ広がりそうなこの研究分野に期待を寄せる。
  


努力―報酬モデルに従った関与

2018年03月14日

 ジェントルマン at 09:07  | 誠晴會だより
努力―報酬モデルに従った関与 

筑波大学大学院生命システム医学・産業精神医学
教授 松崎 一葉

1、努力の過程にコミット(関与)する
2、その努力の過程を評価する
3、結果を褒める
4、結果に対し、感情的に自ら知覚する
5、さらなる期待を込める

具体的には、糖尿病の患者に対する対応がわかりやすいかもしれません。

1、食事コントロール、薬のコンプライアンスに注意する。
2、努力していること、そのものを褒める。上手に出来ていなくても、やろうとしている過程があれば、褒めてあげる。外来通院してきただけで、十分といってあげる。
3、結果が、ちょっとでもよければ、そこをとことん褒めてあげる。検尿で前回300mg/dl出ていた糖が100に下がってたら、そこをとことん褒めてあげる。
4、そして、その結果に対し、よかったね~~~っと、心から思ってあげる。表情に出す。言葉に出す。
5、そして、さらに、今のあなたなら、次は尿糖0よとか、HbA1cは6.5まではいけるよ。とちょっと上の目標をちらつかせる。

子育てもそうです。
1、宿題に一瞬目を通してあげる。勉強部屋を覗いてあげる。ダイニングで勉強させる。
2、勉強していること自体を褒めてあげる。
3、結果が返ってきたら、いいところを見つけて、褒めてあげる。0点でも自分の名前を綺麗に書いていたら、そこをとことん褒めてあげる。
4、いい結果であれ、悪い結果であれ、親として、一緒に喜び、悲しむ。
5、次の目標を具体的に、言葉にし、そうなるようにするためには、どうすべきか考えさせる。また、自分も、その具体的な目標に近づくために何をしてあげればいいか、考え、子どもにも伝える。
なにも浮かばないなら、「じゃ~おかあさん、おいしいカレーを作るね」でいいのです。

平成22年4月1日  朝礼納富 貴
  


多様性と秩序

2018年03月07日

 ジェントルマン at 16:07  | 誠晴會だより
多様性と秩序

誠晴会も職員数100名という大組織になった。
組織は複雑になる。そうなると、さまざまな「組織問題」というものが発生してくる。そして、組織はさらに複雑化してくる。

100余人の個人は、与えられたグループを形成し、仕事に従事する。また、自然発生的な小組織も形成する。
それぞれの思いを、抜けることなく汲み取ることができる組織というものは存在しえない。ここに、問題が生じる基盤がある。つまり、永遠に問題は生じるのである。

それをどうマネージメントするか。

これを「頭の痛い問題」と考える人もいるであろうが、そう考えても、問題を解決はできない。しかも、今後も、この問題は避けては通れるものでもない。
だったら、逆に、こういう問題に真摯に取り組むことも「誠実な医療・介護を提供する」ということの重要な一部だと思うようにすべきである。

さらにつっこんでこう考えよう。
組織がややこしいありようになるのはむしろ「歓迎すべき事態」である。

そう考えるにしかるべきひとつめの理由は、組織内の関係が複雑になればなるほど、ひとつふたつの問題では、倒れない体力がつくからということである。
出現してくる問題は、往々にして単発の周期的に発生してくる頻度の一定したものである可能性が圧倒的に高い。そのような問題に対しては、がんじがらめの世間体にからまれているほうが、組織力としては上なのである。
夫婦喧嘩が激化する理由は、逆に、一対一のシンプルな構造にある。
構造が複雑になれば、対立が激化するリスクを減じることができる。
他人の他の組織の監視の目が増えれば増えるほど、感情同士がぶつかり合うことが避けられる。
問題を先延ばしできる能力を知らず知らずに兼ね備えている組織となっている。

もうひとつ、「歓迎すべき事態」と考えるべき重要な理由は、組織をマネージし、集団的パフォーマンスを向上させる能力をつけることこそが我々の人生修行の目的の一部だからともいえる。これは、一部の管理職層だけに限らない、組織の構成員全員の修行の目的である。
修業とは単に個人の精神的および身体能力を高めることを目的とするのではない。
 高い個人的能力に基づいて、「万有共生」のための、風通しの良い、のびやかな共同体の一構成員となることが、修行の究極の目的である。
正常な組織体を形成することが、個人における修業の大切な実践的目的なのである。
問題の発生により、その修行の場を新たに設けていただいたと感謝してもいいほどだ。

小泉改革で急速に進行してしまった、拝金資本主義市場経済と消費文化の中で解体した中間共同体の再構築こそが私たちの喫緊の市民的課題である。誠晴会を地元におけるその再生のための拠点のひとつと位置づけたい。たまたま「医療・介護」を通じて社会貢献できる位置にいるという地域の中での組織のひとつとしてこれからも存在できれば幸甚なのである。

 そして、その誠晴会自体が、厳密な意味における共同体であるためには、「多様性と秩序」が同時に達成されなければならない。

極一部の権力者による独裁政治がなされてはいけない。
決定事項が、民意(職員)の大多数を反映するものでなくてはならない。
単純な構造によってもたらされる、脆弱性を有してはならない。

ただし、運命的に低俗化の傾向を有する民主主義の弊害の存在も、知ってはおくべきであり、家長制に類似する伝統の力も尊重すべきであることも、同義的に内包させなければならない。
これらも、多様性の一因子であるという前提が崩れてはならない。

 多様性と秩序は矛盾するわけではない。むしろ多様性が正しい秩序を生む。

 多様でなければ、システムは生成的なものにならない。新陳代謝の回転効率が下がる。
そして、秩序が保たれなければ多様なものを構成するそれぞれの「弱い個体」は適切に保護されない。

 「自由で開放的でありながら、隅々まで配慮と支援のネットワーク」が行き届いた共同体とは、多様性と秩序が調和し運営されている共同体のことである。

そもそもそのような運営ができる(目指している)組織でないと、地域住民への「自由で開放的でありながら、隅々まで配慮と支援ができる医療と介護のネットワーク」を提供できる(したいと思っていると伝えることができる)わけがないではないか!!

 誠晴会としてその組織的実践を通じ、検証してゆくことが、私たちの課題である。
そして、我々はその目標に接近していくよう、日々、努力しているものである。

文責:納富 貴