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言葉の多さが競技の熟成度と相関する
言葉の多さが競技の熟成度と相関する
ロンドンオリンピック前に福原愛選手が、中国卓球界の奥深さについて「言葉の多さ」を一つの例に挙げていました。
『言葉からまず違うんです。日本にはないような、卓球専門用語があるんです。日本語で説明すればすごく長くなることも、中国語では一言で言い表してしまいます。例えば「グワー(刮)」という言葉。球にドライブをかけてゆるやかな弧を描くボールのことなんです。また日本語では、一つの言葉なのに、中国の卓球界ではもっと細かく分かれているという場合もあります。』(http://www.china-embassy.or.jp/jpn/jbwzlm/whjl/t255647.htm)
言葉も文化ですが、スポーツも文化です。ヒトが作り出すもの。それぞれは相乗効果を持ちつつ発展するものなのですね。私はU-20女子サッカーワールドカップでのヤングなでしこのみんなのはつらつとした半ば強引ともとれるようなプレーにも感動を覚えていますが、彼女らの言葉の強さにも注目をしていました。彼女たちのインタビューの受け答えについて、尊敬する「サッカーばか」の大先輩である小田嶋隆氏も同じように思われていたようです。コラムで以下のようにコメントしていました。
『メキシコ戦の後、ヤングなでしこの皆さんのインタビューを聞いて、私は、すっかり機嫌を直した。彼女たちは、とても、しっかりしている。素晴らしくアタマが良い。 ヤングなでしこの選手たちは、アイドルグループの少女たちと、年齢はそんなに変わらないと思うのだが、比べてみると、ずっと大人っぽい。選手たちは、ひとつひとつ、きちんと言葉を選びながらしゃべっている。なにより、落ち着いて、インタビュアーの顔を見ている。 先輩のなでしこたちもそうだが、昨今の女子選手は、誰もが、きちんと質問者の意図に沿った適切な答えを返すことができる。「がんばります」「良かったと思います」「夢中でした」みたいな常套句に逃げることも少ない。見事だと思う。先日対談した、大学の先生(岡田憲治さん:専修大学の政治学の教授さん)は、「日本のサッカーが強くなったのは、サッカーの言葉が豊かになったからだ」という持論を語っておられたが、私も全面的に賛成する。たしかに、日韓W杯以降の選手は、戦術や自分の抱負やサッカー観について、きちんと自分の言葉で語れるようになっている。結局、強くなるのは、サッカーを自分のアタマで考え、自分の言葉で捉え直すことのできる選手だということだ。ちょっと心配なのは、若い男子選手の中に、「◯◯だし、◯◯でぇ、◯◯だったし、◯◯と思ったし、◯◯だからぁ」と、だらしなく文節をつなげて行くしゃべり方が蔓延していることだ。 あのしゃべり方は、ぜひやめた方がいい。 パスをつなげてばかりで、シュートを打たないプレイスタイルをもたらすと思うから(笑)。』
(小田嶋隆 キス・ユア・アスリートより)
ここまできたら、小田嶋氏が引用した岡田憲治先生の本も紹介しなきゃいけませんね。
『たくさんの言葉が世界を変える
唐突ですが、サッカー日本代表が一九九八年のフランス大会からずっと続けてワールドカップに出場できるようになった大きな理由の一つを御存知でしょうか。それは、サッカーをとりまく人々(サッカー協会、良質なジャーナリズム、地味に頑張っている全国の指導者、サッカーの選手たち、サッカーを愛する人々)が、プロ化を目指して以降、ずっとサッカーについて以前より「たくさんの言葉を使ってしゃべった」からです。
「んな、あほな。強なったんは、才能ある選手がぎょうさん出てきたからやろ。中田とか小野とか稲本とか」と思っている方にお返しします。その通りなのですが、逆の順番の話もあるのです。指導者はもちろんのこと「全体としてのサッカーに関わる人たち」が、世界の状況を知って、以前より豊かな言葉でサッカーについて何年も語ったから「言葉をきちんと使えて、それゆえ頭を使ってサッカーができる」中田や小野を発見し育て、活躍させることができたんです。
同時に、ワールドカップには出るには出ますが、どうしてもある壁を突き破って「世界の8強」になれない理由は何だと思いますか。それは選手やマスメディアやサポーターに「まだまだ言葉が足りない」からです。[…](pp.4-5)』
(岡田 憲治 20101030 『言葉が足りないとサルになる――現代ニッポンと言語力』,亜紀書房)
そうなんですね。よ~~く、わかりました。確かに、ある事柄が一塊となって言葉に落ちてきた後は、その言葉そのものはプロセスまで含んだ時間軸までも持っています。一瞬で局面が変わるスポーツでは、その時間を含んだ一塊のものの凝集度が高ければ高いほど、情報の伝達速度が速まり、情報内容が充実し、さらにその正確性が増してきます。言葉の純度が戦況を左右するといってもいいのです。これは試合に限った情報戦術面でのことだけではなく、普段の練習の質そのものを高める効果もあるのでしょう。
また、例えば「マリーシア」という言葉ひとつとっても、その概念すらなかった、あるいは「清きサムライ魂」を掲げんがために封印すべき忌まわしい考え方としていた時代に比べて、少なくとも南米選手は「ずるい」手を使ってでも勝ちにこだわるという人たちだよという心構えが備わるだけで、どれだけ試合前の「肝のすわり」が変わるでしょうか!!
言葉で捉えられるということは論理的構築ができているとうことです。感覚から一歩進んだ状態です。卓球のような個人競技でさえ言葉の多さが競技の深さに繋がるなら、チームプレーであるサッカーなどの競技では、言葉はさらに重要性を増すのでしょう。
「言葉を大切に」って、こういうことだったのですね。
納富 貴
ロンドンオリンピック前に福原愛選手が、中国卓球界の奥深さについて「言葉の多さ」を一つの例に挙げていました。
『言葉からまず違うんです。日本にはないような、卓球専門用語があるんです。日本語で説明すればすごく長くなることも、中国語では一言で言い表してしまいます。例えば「グワー(刮)」という言葉。球にドライブをかけてゆるやかな弧を描くボールのことなんです。また日本語では、一つの言葉なのに、中国の卓球界ではもっと細かく分かれているという場合もあります。』(http://www.china-embassy.or.jp/jpn/jbwzlm/whjl/t255647.htm)
言葉も文化ですが、スポーツも文化です。ヒトが作り出すもの。それぞれは相乗効果を持ちつつ発展するものなのですね。私はU-20女子サッカーワールドカップでのヤングなでしこのみんなのはつらつとした半ば強引ともとれるようなプレーにも感動を覚えていますが、彼女らの言葉の強さにも注目をしていました。彼女たちのインタビューの受け答えについて、尊敬する「サッカーばか」の大先輩である小田嶋隆氏も同じように思われていたようです。コラムで以下のようにコメントしていました。
『メキシコ戦の後、ヤングなでしこの皆さんのインタビューを聞いて、私は、すっかり機嫌を直した。彼女たちは、とても、しっかりしている。素晴らしくアタマが良い。 ヤングなでしこの選手たちは、アイドルグループの少女たちと、年齢はそんなに変わらないと思うのだが、比べてみると、ずっと大人っぽい。選手たちは、ひとつひとつ、きちんと言葉を選びながらしゃべっている。なにより、落ち着いて、インタビュアーの顔を見ている。 先輩のなでしこたちもそうだが、昨今の女子選手は、誰もが、きちんと質問者の意図に沿った適切な答えを返すことができる。「がんばります」「良かったと思います」「夢中でした」みたいな常套句に逃げることも少ない。見事だと思う。先日対談した、大学の先生(岡田憲治さん:専修大学の政治学の教授さん)は、「日本のサッカーが強くなったのは、サッカーの言葉が豊かになったからだ」という持論を語っておられたが、私も全面的に賛成する。たしかに、日韓W杯以降の選手は、戦術や自分の抱負やサッカー観について、きちんと自分の言葉で語れるようになっている。結局、強くなるのは、サッカーを自分のアタマで考え、自分の言葉で捉え直すことのできる選手だということだ。ちょっと心配なのは、若い男子選手の中に、「◯◯だし、◯◯でぇ、◯◯だったし、◯◯と思ったし、◯◯だからぁ」と、だらしなく文節をつなげて行くしゃべり方が蔓延していることだ。 あのしゃべり方は、ぜひやめた方がいい。 パスをつなげてばかりで、シュートを打たないプレイスタイルをもたらすと思うから(笑)。』
(小田嶋隆 キス・ユア・アスリートより)
ここまできたら、小田嶋氏が引用した岡田憲治先生の本も紹介しなきゃいけませんね。
『たくさんの言葉が世界を変える
唐突ですが、サッカー日本代表が一九九八年のフランス大会からずっと続けてワールドカップに出場できるようになった大きな理由の一つを御存知でしょうか。それは、サッカーをとりまく人々(サッカー協会、良質なジャーナリズム、地味に頑張っている全国の指導者、サッカーの選手たち、サッカーを愛する人々)が、プロ化を目指して以降、ずっとサッカーについて以前より「たくさんの言葉を使ってしゃべった」からです。
「んな、あほな。強なったんは、才能ある選手がぎょうさん出てきたからやろ。中田とか小野とか稲本とか」と思っている方にお返しします。その通りなのですが、逆の順番の話もあるのです。指導者はもちろんのこと「全体としてのサッカーに関わる人たち」が、世界の状況を知って、以前より豊かな言葉でサッカーについて何年も語ったから「言葉をきちんと使えて、それゆえ頭を使ってサッカーができる」中田や小野を発見し育て、活躍させることができたんです。
同時に、ワールドカップには出るには出ますが、どうしてもある壁を突き破って「世界の8強」になれない理由は何だと思いますか。それは選手やマスメディアやサポーターに「まだまだ言葉が足りない」からです。[…](pp.4-5)』
(岡田 憲治 20101030 『言葉が足りないとサルになる――現代ニッポンと言語力』,亜紀書房)
そうなんですね。よ~~く、わかりました。確かに、ある事柄が一塊となって言葉に落ちてきた後は、その言葉そのものはプロセスまで含んだ時間軸までも持っています。一瞬で局面が変わるスポーツでは、その時間を含んだ一塊のものの凝集度が高ければ高いほど、情報の伝達速度が速まり、情報内容が充実し、さらにその正確性が増してきます。言葉の純度が戦況を左右するといってもいいのです。これは試合に限った情報戦術面でのことだけではなく、普段の練習の質そのものを高める効果もあるのでしょう。
また、例えば「マリーシア」という言葉ひとつとっても、その概念すらなかった、あるいは「清きサムライ魂」を掲げんがために封印すべき忌まわしい考え方としていた時代に比べて、少なくとも南米選手は「ずるい」手を使ってでも勝ちにこだわるという人たちだよという心構えが備わるだけで、どれだけ試合前の「肝のすわり」が変わるでしょうか!!
言葉で捉えられるということは論理的構築ができているとうことです。感覚から一歩進んだ状態です。卓球のような個人競技でさえ言葉の多さが競技の深さに繋がるなら、チームプレーであるサッカーなどの競技では、言葉はさらに重要性を増すのでしょう。
「言葉を大切に」って、こういうことだったのですね。
ウイルスから判った日本人のルーツ知は力なりシリーズ
ウイルスから判った日本人のルーツ知は力なりシリーズ
知っている上で判断を下せる人、知っているが判断できない人、知らないため判断できない人、知らないくせに判断を下してしまう人。知は力なり。我々は医療に携わる職業人として、少なくとも一般の人よりも医療に関する情報を得やすい環境にあります。しかし、環境だけでは情報は生かされた状態で身に入ってこないものです。知を喜びとし、正確な情報の上で判断を下せるようになりましょう。今回は、ウイルス人類学のねたです。
日沼頼夫先生は、熊本出身、もっこス男で、京都大学のウイルス学の教授をなさった方です。
日本人、いや、九州人(縄文人の末裔)としてぞくぞくしますよ。
成人T細胞白血病(ATL)と日本人のルーツ 日沼 頼夫
成人T細胞白血病(ATL)は、HTLV-Iというレトロウイルスによって引き起こされる白血病です。 このHTLV-Iは50年という長い潜伏期間を経た後、ヒトに白血病を引き起こし、死に至らしめます。 現在でも有効な治療薬が未開発である非常に怖いウイルスですが、人類の歴史からみると、不思議なことに人類と共存してきたウイルスともいえるのです。
50年という長い潜伏期間ゆえに、宿主であるヒトの寿命が50歳よりも若かった頃、このウイルスが引き起こす白血病で死ぬ人間はほとんどいなかったのではないかと、考えられています。
ちなみに、エイズの原因ウイルスHIV-1もレトロウイルスですが、5~10年の潜伏期間の後に、ヒトを死に至らしめます。 HIV-1については、最近、よい治療薬・方法が開発され、延命が可能になりつつあります。
HTLV-Iの潜伏感染者(キャリア)は、日本全国、北から南まで、離島や海岸僻地の住民に高率に見つかります。 沖縄の人々とアイヌの人々には特に高率だそうです。 しかし、朝鮮半島、中国大陸の住民にはほとんどキャリアは見つかりません。
日沼博士は、82年にこのHTLV-Iを発見したウイルス学者です。 博士は、86年ごろに次のような仮説を発表しました。
「縄文の昔からウイルスキャリアは日本人に分布していた。 しかし弥生人は後からこの半島に入ってきたが、キャリアではなかった。 弥生人と縄文人は混じり合って今日に至っているが、比較的に混血の少ない縄文系の人々の間に、このキャリアは綿々と受け継がれてきた。
このウイルスは母乳で感染し、性行為で夫から妻へも感染する。 したがって、人々の交流、混血の少ない母集団(離島、海岸集落)にこのキャリアは高率に現存している。」
最近、この仮説が証明される時がやってきました。 南米のアンデス先住民のミイラ(約千年前)の骨髄から、ウイルス(HTLV-I) 遺伝子を検出することに成功したのです。 そしてこのウイルスのサブタイプ(種類)は、日本人の縄文系の人々のサブタイプと酷似していることが証明されました。 これは両者が同一起源であることを強く示唆していたのです。
つまり、「ウイルス人類学」から人類の起源・移住の歴史が証明されたのです。
参考文献:「ウイルスはどこにでもいる」 日沼頼夫、勉誠出版、2002年
この本を読みたい方は、院長が持っていますので、お気軽に申し出てください。
納富 貴
知っている上で判断を下せる人、知っているが判断できない人、知らないため判断できない人、知らないくせに判断を下してしまう人。知は力なり。我々は医療に携わる職業人として、少なくとも一般の人よりも医療に関する情報を得やすい環境にあります。しかし、環境だけでは情報は生かされた状態で身に入ってこないものです。知を喜びとし、正確な情報の上で判断を下せるようになりましょう。今回は、ウイルス人類学のねたです。
日沼頼夫先生は、熊本出身、もっこス男で、京都大学のウイルス学の教授をなさった方です。
日本人、いや、九州人(縄文人の末裔)としてぞくぞくしますよ。
成人T細胞白血病(ATL)と日本人のルーツ 日沼 頼夫
成人T細胞白血病(ATL)は、HTLV-Iというレトロウイルスによって引き起こされる白血病です。 このHTLV-Iは50年という長い潜伏期間を経た後、ヒトに白血病を引き起こし、死に至らしめます。 現在でも有効な治療薬が未開発である非常に怖いウイルスですが、人類の歴史からみると、不思議なことに人類と共存してきたウイルスともいえるのです。
50年という長い潜伏期間ゆえに、宿主であるヒトの寿命が50歳よりも若かった頃、このウイルスが引き起こす白血病で死ぬ人間はほとんどいなかったのではないかと、考えられています。
ちなみに、エイズの原因ウイルスHIV-1もレトロウイルスですが、5~10年の潜伏期間の後に、ヒトを死に至らしめます。 HIV-1については、最近、よい治療薬・方法が開発され、延命が可能になりつつあります。
HTLV-Iの潜伏感染者(キャリア)は、日本全国、北から南まで、離島や海岸僻地の住民に高率に見つかります。 沖縄の人々とアイヌの人々には特に高率だそうです。 しかし、朝鮮半島、中国大陸の住民にはほとんどキャリアは見つかりません。
日沼博士は、82年にこのHTLV-Iを発見したウイルス学者です。 博士は、86年ごろに次のような仮説を発表しました。
「縄文の昔からウイルスキャリアは日本人に分布していた。 しかし弥生人は後からこの半島に入ってきたが、キャリアではなかった。 弥生人と縄文人は混じり合って今日に至っているが、比較的に混血の少ない縄文系の人々の間に、このキャリアは綿々と受け継がれてきた。
このウイルスは母乳で感染し、性行為で夫から妻へも感染する。 したがって、人々の交流、混血の少ない母集団(離島、海岸集落)にこのキャリアは高率に現存している。」
最近、この仮説が証明される時がやってきました。 南米のアンデス先住民のミイラ(約千年前)の骨髄から、ウイルス(HTLV-I) 遺伝子を検出することに成功したのです。 そしてこのウイルスのサブタイプ(種類)は、日本人の縄文系の人々のサブタイプと酷似していることが証明されました。 これは両者が同一起源であることを強く示唆していたのです。
つまり、「ウイルス人類学」から人類の起源・移住の歴史が証明されたのです。
参考文献:「ウイルスはどこにでもいる」 日沼頼夫、勉誠出版、2002年
この本を読みたい方は、院長が持っていますので、お気軽に申し出てください。