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現行臓器移植制度の問題点とその改善策

2018年08月28日

 ジェントルマン at 09:00  | 誠晴會だより
現行臓器移植制度の問題点とその改善策

 我々は透析医療を提供させていただいています。我が国の臓器移植問題の中で最も深刻なものは、提供者不足と考えられます。腎移植が進めば、増加の一途をたどる透析医療を受けなければいけない患者の数も減るでしょう。心臓や肺に重大な疾患を抱え、移植により救える可能性がある命も、肝心の健康な臓器が供給されないのならば、ついえることになります。よって、ここでは現状の制度の問題点を挙げ、ドナーの数が増えることを第一の目的として、改善策を検討したいと思います。

1、意思表示について

 臓器提供の同意がなく医療側の判断で移植のドナーにできるのならば、現在より飛躍的に臓器提供の数は増えるのでしょうが、私は臓器提供に関し、現行法と同じく本人の同意は必ず必要と考えます。本人の意思がなくとも、臓器移植ができる制度は基本的人権を毀損すると思われるからです。

 現在の制度では臓器提供の意思表示の場が少ないことも問題だと思われます。例えば、運転免許発行時に臓器提供の意思表示を明確にするという方式の導入は、縦割り行政の問題を突破したいい事例です。しかし、免許を取らない人、免許更新を諦めた人は意思表示されません。その他に、住民記帳台帳調査の際に家族分の意思表示カードを置いて行く、成人式の案内に臓器移植の意思表示カードを同封するといったやり方はいいと思いますが、カードをもらっても記載しなければ意思表示がなされないことになります。
 意思を示す年齢ですが、旧移植法では脳死で臓器を提供できるのは15歳以上でした。それが2010年の改正で撤廃されました。しかし、この5年で15歳以下で臓器提供がなされたのはわずか7例しかありません。小さい子供の臓器を提供するにあたり何か問題がありそうです。そこでまず、子供の臓器提供に関する意思決定について考えてみます。子供が未成年の場合は親が子供の臓器提出を決定しているのが現状でしょうが、はたして、未成年期に脳死状態となった場合、親が勝手に決めていいのか?という問題です。基本的に私は、子供が12歳まで(小学校6年生)は親が決めていいと思います。意思表示を小さい子供に決めさせるのは無理があるし、あまりにも過酷です。12歳以上になれば、例えば、小学校卒業時に倫理の時間で移植を勉強して、意思表示を各児童に各々検討してもらうという方法もいいかもしれません。あるいは、中学校入学時や卒業時に移植提供の意思表示ができるよう制度化すれば、ほとんど全ての日本人が意思表示をしていることになるでしょう。

意思表示については他にも問題があります。列記します。
○ 遺族の同意は?遺族の範囲は?2親等まで??
○ 本人が同意していたのに、家族が反対した場合は?
○ 本人の意思表示はなかったが、家族が移植したがった場合は可能か?
○ 本人の意思表示はなかったが、家族が移植拒絶。
○ 複数の異なる意思表示カードを持っていた場合。
 本人が移植承諾を拒否している場合は、現状では移植不可能だと思いますが、仮に本人の意思に左右されない制度が作られた場合、本人が提供を拒絶していても移植可能な状態になればその方の臓器は移植に回されるということになります。やはり、それは制度上問題があるといっていいでしょう。
 これらの問題はつきつめると、死とは?意識とは?児童や学童と大人の里は?そもそも家族ってなんでしょう?という話しになり、問題が大きくなるのでここでは論じないことにします。

 続く。  


「困難な成熟」予告編 4

2018年08月21日

 ジェントルマン at 09:00  | 誠晴會だより
「困難な成熟」予告編 4 2015.08.18 内田樹のブログより

逆説的な結論

これも考えればすぐにわかりますが、構成員全員が「オレには責任ないからね」と言い募り、不祥事の責任を誰か他人に押しつけようと汲々としている社会と、構成員全員が自分の手の届く範囲のことについては、「あ、それはオレが責任を持つよ」とさらっと言ってくれる社会で、どちらが「誰かが責任を取らなければならないようなひどいこと」が起こる確率が高いか。
まことに逆説的なことではありますが、「オレが責任を取るよ」という言葉を言う人間が一人増えるごとに、その集団からは「誰かが責任を取らなければならないようなこと」が起きるリスクがひとつずつ減っていくのです。集団構成員の全員が人を差し置いてまで「オレが責任を取るよ」と言う社会では、「誰かが責任を取らなければならないような事故やミス」が起きても、「誰の責任だ」と言うような議論は誰もしません。そんな話題には誰も時間を割かない。だって、みんなその「ひどいこと」について、自分にも責任の一端があったと感じるに決まっているからです。「この事態については、オレにも責任の一端はあるよな」と思って、内心忸怩たる人間がどうして「責任者出てこい」というような他罰的な言葉をぺらぺら口に出すことができるでしょうか。
長くなりましたので、結論を申し上げます(もう申し上げましたけど、まとめ)。
責任というのは、誰にも取ることのできないものです。にもかかわらず、責任というのは、人に押しつけられるものではありません。自分で引き受けるものです。というのは、「責任を引き受けます」と宣言する人間が多ければ多いほど、「誰かが責任を引き受けなければならないようなこと」の出現確率は逓減してゆくからです。
どのような社会的な概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものです。「責任」という概念もそのひとつです。
「責任」は「鍋」とか「目覚まし時計」のように、実体的に存在するものではありません。でも、それが「ある」というふうに考えた方がいいと昔の人は考えた。それをどういうふうに扱うのかについて、エンドレスに困惑することを通じて、人間が倫理的に成熟してゆくことを可能にする、遂行的な概念だからこそ、作り出されたのです。
そういう意味では、それは「摂理」とか「善」とか「美」とかいう概念と同じようにとらえがたいものです。「どんなものだか見たいから、ここに紐で括って持って来い」というようなご要望にお応えできる筋のものではありません。
それはあるいはヒッチコックが「マクガフィン」と呼んだものと似ているのかも知れません。
マクガフィンというのは、スパイ映画なんかで、敵味方が入り乱れて奪い合う「マイクロフィルム」とか「秘密の地図」の類です。それが何であるかはどうでもよろしい。とにかく、それをめぐってすべての登場人物の欲望が編制されている。誰一人、その呪縛から逃れることができない。でも、実体が何だかわからない。そして、なんだからわからなくても、サスペンスの興趣は少しも減殺されない。
マクガフィンには効果だけがあって実体がありません。これについてヒッチコックはこんな小咄を紹介しています。
「その網棚の上にあるのはなんだい?」
「これかい、これはマクガフィンだよ」
「マクガフィンて、何だい?」
「アディロンダック山地でライオンを狩るための道具だよ」
「アディロンダックにライオンなんかいないぜ」
「ほら、マクガフィンは役に立っているだろ」
マクガフィンを「責任」に、「ライオン」を「われわれの社会を脅かすリスク」に置き換えて読んでみて下さい。

終わり
  


「困難な成熟」予告編 3

2018年08月16日

 ジェントルマン at 09:00  | 誠晴會だより
「困難な成熟」予告編 3 2015.08.18 内田樹のブログより

「責任を取る」ことなど誰にもできない
まことに逆説的なことですが、私たちが「責任」という言葉を口にするのは、「責任を取る」ことを求められるような事態に決して陥ってはならないという予防的な文脈においてだということです。それ以外に「責任」という言葉の生産的な使用法はありません。
さっき言ったように「責任取れよな」という言葉は、「お前には永遠に責任を取ることができない」という呪いの言葉です。「これこれの償いをなしたら許されるであろう」と言っているわけではありません。
学校でいじめにあった子どもが自殺したときに、親がいじめた子どもの両親と学校長と担任を相手取って、「1億円の損害賠償請求」をしたというような記事を読むことがあります。これだって「1億円払ったら許してやる」と言っているわけではありません。この賠償額の設定基準は「相手の一生を台無しにできるくらいの金額」ということです。つまり、賠償請求をすることを通じて、「私はおまえたちを絶対に許さない」という賠償の不可能性を告げているのです。
「責任を取れ」というセンテンスは「なぜなら、おまえには責任を取ることができないからだ」という口にされないセンテンスを常に伴っているのです。
ですから、「どうやって責任を取るのか」というのは問いのありようとして、すでに間違っているのです。
責任は取れないんですから。誰にも。
私たちが責任について思考できることは、ひとつだけです。
それは、どうすれば「責任を取る」ことを求められるような立場に立たないか、ということ、それだけです。
勘違いしてもらっては困りますが、それは何についても「私は知らない。私は関与していない。私には責任がない」という言い訳を用意して、逃げ出すということではありません。まるで、逆です。
だって、その人は「私には責任がない」と言い張っているわけですからね。いかなる不祥事が起きようと、他人が傷つこうと、貴重な富が失われようと、システムが瓦解しようと、「私には責任がない」と言って逃げ出すんです。そんなことを金切り声で言い立てる人間ばかりだったら、世の中、どうなりますか。「私には責任がない」と言う権利を留保している人間だけで構成された社会を想像してください。そりゃすごいですよ。電気は消える。水道は止まる。電車は来ない。銀行のATMは動かない。電話は通じない。その他もろもろ。
きちんと機能している社会、安全で、そこそこ豊かで、みんながルールをだいたい守っている社会に住みながら、かつ「責任を取ることを人から求められないで済む」生き方をしようと思ったら、やることはひとつしかありません。
それは「オレが責任を持つよ」という言葉を言うことです。  続く、、、